藤樹書院藤樹書院(とうじゅしょいん)は、江戸時代の陽明学者中江藤樹が、近江国(今の滋賀県高島市)で開いた私塾。滋賀県高島市安曇川町上小川225に位置する。 概要藤樹は、実家が大きな藤の木の下にあったことからついた号。この藤の老木は現在も書院の裏手にあって、古い街道筋におおいかぶさるように立っている。書院は、この場合、奈良本辰也によると私立学校のことである[1]。藤樹は、元和8年(1622年)、祖父中江吉長の後を継いで、15歳で伊予大洲藩に出仕したが、26歳で藩の許しを得ないまま出奔して、郷里小川村に帰り、私塾を開いた。このために門人たちに講義する場所として建てた会所が、手狭になり死の半年前に新築した。だが当時の建物は明治13年(1880年)の大火で近在の農家34戸と共に焼失。現在のものは、明治15年(1882年)に再建されたもの。元のものよりも、規模が小さくなっている。大正11年(1922年)に国の史跡に指定された[2]。 塾の規則寛永16年(1639年)、藤樹32歳の頃には塾としてもひとつの形ができあがったようで、「藤樹規」および「学舎座右銘」というものがつくられた。いずれも生徒の心得のようなものである。「藤樹規」は、額にして書院の壁に掛けられていた。それは以下の六条の心得である。 一、大学の道は、明徳を明らかにするに在り。民を親しむに在り、至善に止まるに在り。 彼は、村人たちの教育にも誠意と情熱を注ぎ、人を感化した。「村民の之を尊信すること神の如く」であり、彼が亡くなった時には「隣里郷党皆涕泣して柩を送る。其の状恰も親戚を喪するが如し」だったと伝えられる。彼の弟子に、熊沢蕃山、淵岡山という二人の陽明学者がいる。 近在の関連施設
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