藤原隆佐
藤原 隆佐(ふじわら の たかすけ)は、平安時代中期から後期にかけての公卿。藤原北家勧修寺流、右衛門権佐・藤原宣孝の五男。官位は従三位・大蔵卿。 経歴一条朝の寛弘元年(1004年)に文章生に補され、寛弘4年(1007年)少内記、寛弘6年(1009年)大内記と内記を歴任。春宮・居貞親王の蔵人を経て、寛弘8年(1011年)居貞親王が即位(三条天皇)すると長和2年(1013年)六位蔵人に補任される。のち、式部丞を経て、長和5年(1016年)には従五位下に叙爵された。 同年の後一条天皇の即位後も引き続き昇殿を聴されるとともに、三条院の判代官を務める。また、同年3月には三条院が摂政・藤原道長に対して、隆佐に東宮昇殿を聴すべきであると述べる[1]など、三条院の信頼が厚かった様子が窺われる。長和6年(1017年)伯耆守に任ぜられて任地に下向。寛仁5年(1021年)に帰京し、翌治安2年(1022年)正月に治国を賞されて従五位上に、さらに同年4月には造宮廊の功で正五位下に叙せられる。万寿3年(1026年)越後守に任ぜられ、長元2年(1029年)まで国司を務めた。 その後は、長元4年(1031年)に春宮・敦良親王の春宮大進となり、長元5年(1032年)には左衛門権佐・検非違使佐を兼ねるなど京官を務めた。のち、長元8年(1035年)従四位下次いで従四位上、長元9年(1036年)敦良親王の即位(後朱雀天皇)に伴って春宮大進の功労により正四位下に叙せられている。長暦元年(1037年)春宮亮として今度は新春宮・親仁親王に仕える一方で、長暦2年(1038年)近江守を兼ねた。 寛徳2年(1045年)親仁親王が即位(後冷泉天皇)するも、隆佐は既に正四位下に至っていたことから、すぐに前春宮亮としての叙位はなされず、永承4年(1049年)に播磨守に任ぜられる。のち、皇后・藤原寛子の皇后宮亮や近江守を務め、康平2年(1059年)になって、前春宮亮としての功労により正四位下昇進後から約23年を経て従三位に叙せられ、76歳にしてついに公卿に列した。公卿昇進後はしばらく散位にあったが治暦2年(1066年)大蔵卿に任ぜられている。 承保元年(1074年)薨去。享年90。最終官位は大蔵卿従三位。 官歴『公卿補任』による。
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