藤原致忠
藤原 致忠(ふじわら の むねただ)は、平安時代中期の貴族。藤原南家、大納言・藤原元方の子。官位は従四位下・右京大夫。 経歴村上朝にて大学寮の学生であったが、天暦2年(948年)高階成忠らとともに文章生試を受験している。また、天暦年間には六位蔵人も務めた。 のち、備後守・右衛門権佐・右近衛少将・右京大夫・右馬権頭などを歴任。この間、一条朝初頭の永延元年(987年)には任務に就かなかったとして、右京大夫の官職を止められている。永延2年(988年)盗賊の首領であるとして、息子の保輔に対する追捕宣旨が出された際、父親である致忠も拘禁された。長保元年(999年)橘惟頼及びその郎等を殺害した罪で惟頼の父の橘輔政に訴えられ佐渡国に流された。薫物の名手としても知られた。 官歴
系譜『尊卑分脈』による。 脚注参考文献 |