藤原敦家
藤原 敦家(ふじわら の あついえ)は、平安時代中期から後期にかけての貴族・雅楽家。藤原北家道綱流、参議・藤原兼経の子。官位は正四位上・伊予守。 経歴後冷泉朝にて、右近衛少将を経て、康平5年(1062年)左馬頭に任ぜられる。治暦4年(1068年)4月に後冷泉天皇が重態となる中で蔵人頭に任ぜられるが、任官僅か3日ほどで後冷泉天皇は崩御し、敦家は蔵人頭を辞した。 白河朝から堀河朝初頭にかけて、加賀守・備前守・近江守・伊予守と地方官を歴任する。この間の寛治元年(1087年)六条殿被仰勧賞により正四位上に至る。寛治4年(1090年)7月13日に金峰山で頓死。最終官位は伊予守正四位上。享年58。 人物「管絃得名楽道之名匠」と評され[1]、神楽・朗詠・今様に堪能であったとされる[2]。和邇部用光に学び、秘曲「臨調子」を伝授されたという[3]。特に篳篥の腕前は素晴らしく「本朝篳篥一芸相伝棟梁」と評された[1]。 金峰山での頓死についても[4]、「敦家、こゑめでたくて御嶽に召しとどめられて御眷属となり」といわれた[5]。 官歴
系譜『尊卑分脈』による。 脚注出典 |