萩原信芳萩原 信芳(はぎわら のぶよし[1]、文政11年4月8日[2][3](1828年5月21日) - 明治42年(1909年)11月28日)は、江戸時代後期から明治時代の和算家(数学者)。通称は禎助、字は徳卿、号は湖山[4][2][3]、俳名可朴[4]。 生涯上野国勢多郡関根村(現・群馬県前橋市関根町)の農家の長男として生まれる[1][2][3]。先祖は新田氏であると伝わる[2][3]。天保7年(1836年)から同村の小泉鐘豊に教えを受け[2][3]、さらに同村の養田鱗斎(1796年 - 1876年)に初等数学を学ぶ[1][2][3]。また上小出村(現・前橋市上小出町)の藍沢無満(1774年 - 1864年)より国学・儒学を教わった[2][3]。 嘉永4年(1851年)から群馬郡板井村(現・佐波郡玉村町板井)の斎藤宜義(1816年 - 1889年)に師事し本格的に和算を学ぶ[3][2]。文久元年(1861年)に宜義から三題免許を与えられた[1][4]。家業が農業であったため夜間に勉学を行ったという[3][1]。 明治10年(1877年)から原小学校訓導[4]、翌年4月から群馬県師範学校教師を勤めた[3]。 明治17年(1884年)から東京大学理学部教授・菊池大麓の招きにより東京大学で4年間和算書の調査を行った[1]。 明治42年(1909年)11月28日、82歳で死去[2][3]。法名は算学院寿徳明阿居士[4]。 没後、元文年間以降の和算書78本中の難題の解法解説を示した『蠡管算法』が出版された[1]。 安政5年(1858年)に前橋八幡宮に算額を奉納しているが、前橋空襲で焼失し現存しない[4]。弟子は少なく、免許を与えられたのは勢多郡深山村(現・渋川市赤城町深山)の須田浅造由親(1835年 - 1906年)しか確認されていない[1]。茨城県の弟子・三又柳見斎(白澤寅之介)は昭和2年(1927年)に算学を笠間市小原の小原神社に奉納している[5]。 著書
脚注参考文献
関連項目
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