荻田長磐
荻田 長磐(おぎた ながいわ)、通称荻田 隼人(おぎた はやと)は、江戸時代初期の越後高田藩家老。荻田勝定の子で、荻田主馬(三代目)の名で有名な荻田長繁の孫。妻は神尾守勝の娘。子に荻田本繁、神尾守勝がいる。 経歴寛永12年(1635年)、父・勝定の死去により家督を継ぎ、高田藩家老・糸魚川城代(1万4千石)となる。筆頭家老の小栗正重と共に藩政を支え、藩主松平光長(越後中将家)[1]を補佐した。また、正重と共に新田開発を推進し、現在の南魚沼市新堀新田は、長磐により開発された村という。 寛文5年(1666年)に発生した越後高田地震により、正重ともども圧死した。 長男の本繁は越後騒動の中心人物として知られる。次男の吉繁は旗本・神尾守正の末期養子となり、神尾守勝と名乗った。 脚注
参考文献
関連項目
|