若松平治
若松 平治(わかまつ へいじ、1888年(明治21年)4月8日[1] - 1973年(昭和48年)4月11日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 経歴1888年(明治21年)に鹿児島県で生まれた[1]。陸軍士官学校第21期卒業[1]。1936年(昭和11年)8月に陸軍歩兵大佐に進級し[2]、福知山連隊区司令官に就任し[2]、1938年(昭和13年)に歩兵第45連隊長に転じた[2]。 1939年(昭和14年)8に陸軍少将に進級し[2]、歩兵第30旅団長に就任した[1]。1941年(昭和16年)3月に独立混成第16旅団長に転じ[1]、日中戦争に出動[1]、汾陽に駐屯し[1]、治安警備に当たった[1]。1942年(昭和17年)2月3日に予備役に編入された[1]。召集日は不明であるが、福岡連隊区司令官に就任し[3]、1944年(昭和19年)7月8日に西部軍兵務部長に就任した[3]。1945年(昭和20年)2月1日に西部軍管区兵務部長に転じ[4]、3月31日に宮崎連隊区司令官兼宮崎地区司令官に就任した[5]。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[6]。 栄典
脚注
参考文献
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