色川大吉色川 大吉(いろかわ だいきち、1925年〈大正14年〉7月23日 - 2021年〈令和3年〉9月7日)は、日本の歴史家。東京経済大学名誉教授。専門は日本近代史、民衆思想史。 経歴千葉県佐原市(現、香取市)生まれ。家業は運送業。旧制第二高等学校(仙台市)から東京帝国大学文学部に進学するも、太平洋戦争の学徒出陣で海軍航空隊へ入隊する。終戦に伴い復員すると、靴磨き、論文の下請け、農業などを行いつつ、1948年(昭和23年)に、前年9月に東京帝国大学から改称した東京大学を卒業。 ヴ・ナロード(人民の中へ)を目指して栃木県の中学校教員となるが、1年で挫折する。その後は上京し、日本共産党に入党し民主商工会の書記となる。1949年、渋谷駅前で反占領軍演説を行い逮捕されたが、すぐ釈放され日本の独立まで地下に潜行する。1951年(昭和26年)に民主主義演劇運動の「新演劇研究所」を三木順一の名で設立する。また、1954年から服部之総が創設した日本近代史研究会の若手メンバーとなる[1][2]。 北村透谷、石坂公歴、困民党などの運動を研究し、1960年に論文「困民党と自由党」を、1961年に論文「自由民権運動の地下水を汲むもの 透谷と公歴」を発表する[3]。これが後に「民衆史」という学問領域が生まれるきっかけになった[4]。 のち東京経済大学講師・助教授を経て、1967年に教授[5]となる。1996年(平成8年)に同大学を定年退職すると名誉教授になった。1970年(昭和45年)には米国プリンストン大学に招聘され、近代日本史の客員教授を務めた。1983年(昭和58年)開館の国立歴史民俗博物館の設立に、初代館長井上光貞とともに尽力する。1986年4月から1年間、国立歴史民俗博物館客員教授[6]。 晩年は山梨県の八ヶ岳地方に暮らし、執筆活動や全国各地での講演を行っていた。 2021年9月7日午前2時43分、老衰のため96歳で死去した[7][8]。亡くなる前日に、盟友で色川を介護していた上野千鶴子が、死後の各種手続きをするために婚姻届を提出し、15時間の婚姻関係にあった[9]。婚姻届の提出にあたり、長く生きる上野が不利益を被らないように色川が改姓に同意し、死亡届の「死亡者」は「上野大吉」になった[9]。 研究活動“色川史学”と呼ばれた底辺の民衆の視点、学者離れした自由奔放さは多くのフィールドワーク(実地見聞)から生まれた。少人数制のゼミは学生たちに人気で、他大学の学生や一般市民まで巻き込んでいくユニークな授業を行なった。 明治期の埋もれた民衆思想を発掘した。北村透谷の研究を進めるため、東京都・多摩地域の自由民権運動の歴史を掘り起こした。1959年多摩文化研究会に参加、その延長として1968年に多摩史研究会を結成し、市民の手による地域史研究の先駆となる[5]。その成果は『明治精神史』(1964年)にまとめられ、また小田急電鉄の創設者である利光鶴松研究が明治初期に各地で起草された私擬憲法の一つである「五日市憲法草案」の発見(1968年)につながった。 1975年に毎日出版文化賞を受賞した「ある昭和史」は「自分史」という言葉を作り出した。同書中で日本人(大和民族)の“村社会”ぶりを批判し天皇制は廃止されるべしと述べ、「こうした精神構造が変わらない限り、日本人の終局的な天皇権威からの解放はありえないであろう」と論じている。 学生時代から山岳に興味があり行動的で、一人ふらりと世界を旅をすることが多い。1971年(昭和46年)、キャンピングカー化したフォルクスワーゲン・タイプ2「どさ号」に「リスボン~東京5万キロ」と標語を貼り付け、友人ら数人でユーラシア大陸を走破。それらの経験をもとに『ユーラシア大陸思索行』や、後年に『フーテン老人世界遊び歩記』を出版する。さらに後年、『わたしの世界辺境周遊記 ―フーテン老人ふたたび』を出版する。 1976年から1981年まで[6]不知火海総合学術調査団団長もつとめた[5]。また、小田実と共に市民団体「日本はこれでいいのか市民連合」(日市連、「ベ平連」の後継運動で1980年結成、1995年解散)の共同代表だった。1986年、東北大学西蔵学術登山隊の人文班長として、チベットの文明と奥地の踏査にも加わった[5]。1992年6月、日本西蔵聖山(カイラス)踏査隊長[6]。 ライフワークとして岩手県花巻出身の宮沢賢治と青森県八戸市の前原寅吉(1872年 - 1950年)を対比した研究に取り組んでいる(前原はハレー彗星太陽面通過を世界で初めて個人で観測したことで知られる)。色川は、前原がハレー彗星を観測してからちょうど100年目にあたる2010年(平成22年)5月19日、八戸市公会堂にて講演「宮沢賢治と前原寅吉の銀河世界」を約300名の聴衆を前におこない宮沢賢治の童話「銀河鉄道の夜」にて主人公ジョバンニが訪ねた天体望遠鏡がある時計屋は、賢治が八戸を小旅行した時、訪ねた前原時計店がモデルになっていることを説明した[要出典]。 2017年には、宮沢賢治ゆかりのイーハトーブ賞を受賞した。「日本近代の民衆史・精神史を捉え直してきた活動の一環として宮沢賢治をも考察し、広い視野に位置づけた業績」を評価された[10][11]。 部落解放同盟からの糾弾1995年、色川は「戦後50年の再検討」と題する講演の中で、1983年に部落解放県政樹立広島県民研究集会で講演をしたことに触れた後、「解放同盟の集会ですと、まかり間違えば踊りかかってきて刺されるというような。あすこは山口組と重なっておりますから」と発言。部落解放同盟が歴史的に暴力団と深く関係していることは事実であったが[12]、色川の発言は差別とされ糾弾を受けた[13]。 →「部落解放同盟 § 暴力団との関係」も参照
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編著
著作集
追悼集
脚注
関連項目 |