臧宮

臧 宮(ぞう きゅう、? - 58年)は、後漢の武将。君翁(くんおう)。潁川郡郟県(河南省郟県)の人(『後漢書』列伝8・本伝)[1]光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の14位に序せられる(『後漢書』列伝12)。

略歴

姓名 臧宮
時代 代 - 後漢時代
生没年 生年不詳 - 58年永平1年)
字・別号 君翁(字)
本貫・出身地等 豫州潁川郡郟県
職官 亭長〔新〕→校尉〔王常〕

→偏将軍〔劉秀〕→侍中兼騎都尉〔後漢〕
→輔威将軍〔後漢〕→広漢太守〔後漢〕
太中大夫〔後漢〕→城門校尉〔後漢〕
左中郎将〔後漢〕

爵位・号等 成安侯〔後漢〕→期思侯〔後漢〕

→酇侯〔後漢〕→朗陵侯〔後漢〕
→朗陵愍侯〔没後〕

陣営・所属等 王常更始帝光武帝明帝
家族・一族 子:臧信

若くして県の亭長となり、後に賓客を率いて下江の兵の中に入り校尉となった。下江の兵は劉縯の説得により漢兵と連合し、臧宮は劉秀に従いて征戦した。河北に至ると、偏将軍と為った。劉秀に従いて、郡賊を破り、しばしば敵陣を落す功があった。

建武元年(25年)、光武帝は即位し、臧宮を侍中・騎都尉と為した。建武2年(26年)、列侯に封じられた。

建武3年(27年)、光武帝の鄧奉親征に従いて、突騎を率いて祭遵と共に、更始帝の将の左防・韋顔を涅陽・酈に破った。岑彭に従いて鄧奉を小長安に追った。光武帝は、岑彭をして傅俊・臧宮・劉宏らを率いさせ時の群雄の一人の秦豊を撃たせた。臧宮は、兵を率いて江夏を攻略し、代郷・鍾武・竹里を撃って皆な下した[2]。輔威将軍を拝した。

建武7年(31年)、臧宮は梁都・済陰を撃ちて平げた。

建武11年(35年)春、公孫述討伐のため、臧宮は岑彭・大司馬呉漢劉隆劉歆劉植の従兄弟)と共に兵を発し、輸送のための船頭を徴発し、荊門に集結する。荊門は征南大将軍岑彭に任せられた故、臧宮も岑彭に従った。荊門を破り、垂鵲山に至り、遂には江州に至った。岑彭は巴郡を下し、降兵5万を臧宮に預け、平曲に上らせ、自らは電撃戦を敢行する。臧宮は平曲に守り、遂には公孫述の将の延岑を挫く[3]。岑彭は公孫述の刺客に倒れ、全軍は呉漢に引き継がれた。臧宮が平陽郷に至れば、公孫述の将の王元は降り、更に進軍し、綿竹を落し、涪城を破り、公孫述の弟の公孫恢を斬り、更に攻めて繁、郫を降した。遂には呉漢と共に公孫述を滅ぼした。光武帝は蜀が定まれば、臧宮を広漢太守と為した。

建武15年(39年)、召されて、京師に帰り、列侯を持って朝請を奉じ、定めて朗陵侯に封ぜられた。建武18年(42年)、太中大夫を拝した。

建武19年(43年)、妖しげな巫(かんなぎ)の弟子たちが妖言を用いて集合し、原武城に入り、自ら将軍と号した。光武帝は、これに対して臧宮らを遣わしてこれを囲ませ、攻めるも落ちない。ここで臧宮は、光武帝より東海王劉陽(後の明帝)の策[4]を受け、遂に賊を平らげた。

永平元年(58年)、卒す。諡は愍侯。

人柄・逸話

臧宮
  • 諸将からその勇を称され、劉秀は勤勉で寡黙であるのを察して、甚だ親しんだ。
  • 寡兵で、駱越に至りし時、周囲がまだなじまない時に、夜中に城門の敷居を斬らせて、夜中に何度も車を通らせることで、あたかも大兵があるが如く聞こえさせ、駱越人を帰順させた。
  • 好戦的な武将であり、匈奴が飢饉と疫病に襲われた時、光武帝に方策を訊かれて、「兵を率いて功を為さん」と答え、光武帝に「常勝将軍とは計略を共に出来ず、我もそれを考える」と言われている。また馬武と共に匈奴を撃つ建策を上書している。しかし光武帝は国を傾けるかもしれない行為であり、寧ろ民を回復させる方が大事だと、それを採用することは無かった。

脚注

  1. ^ 『後漢書』巻18、呉蓋陳臧列伝第8、臧宮伝。
  2. ^ 『後漢書』では江夏攻略を建武3年のことと記しているが、建武2年、明年、建武3年と記載されているので、建武4年の誤りと思われる。
  3. ^ 降卒5万と、兵士は多く食料は少なく、裏切りが生じかねず、郡邑もその動静を窺っている状況で、偶々光武帝が岑彭に送った馬700匹があったのでこれを徴発し、深夜に兵を進めて多く旗幟を上げ、山に登って太鼓を打ちと、逆に多勢に見せ掛け、遂には、延岑の軍を浮き足立たせ、潰走させた。
  4. ^ 囲みがきついので逃れられない。よって四方の囲みの一方を開いて、わざと逃がせば、散り散りになった兵を捕えるのは一亭長でも可能である。

参考文献

  • 范曄著、『後漢書』。
    • 中央研究院・歴史語言研究所「漢籍電子文献資料庫」。
    • 岩波書店『後漢書〈第3冊〉列伝(1) 巻一〜巻十二』2002/5/29 范曄(著), 吉川忠夫(著)