網島 毅(あみしま つよし、1905年(明治38年)6月2日[1][2] - 1995年(平成7年)4月2日[3])は、昭和時代から平成時代の通信技術者。
経歴
北海道小樽市出身[1]。1929年(昭和4年)北海道大学工学部を卒業、逓信省工務局に奉職[2]。無線課長、電波局電波課長、電波局長、電波管理局長官を歴任[2]。この間、1936年(昭和11年)ベルリンオリンピック開催に際した日独間無線写真伝送実験、航空無線用超短波全方向式ビーコンの発明考案などに貢献した[2]。
行政面では、1937年(昭和12年)カイロで行われた国際電信電話会議及び国際無線通信会議に政府委員として出席したほか、1948年(昭和23年)メキシコシティの国際短波放送会議にはSCAP代表の技術顧問として赴き、日本に対する国際放送周波数の割り当ての原則の確認を得た[2]。のち電波管理局長官の時、電波法及び放送法を制定した[2]。また、電波管理委員会の発足時には副委員長となり民間放送の実現に寄与した[2]。
ほか、電気通信協会会長[4]、住友スリーエム(現・スリーエム ジャパン)社長、愛知工業大学教授などを務めた[1]。1975年に勲一等瑞宝章を受章、1978年にNHK放送文化賞を受賞[1]。
1995年4月2日、心筋梗塞のため死去[1]。
著作
著書
単著
- 『無線局の設計』共立社〈無線工学講座 9〉、1934年6月。
- 『無線局の設計』共立社、1937年5月。
- 『波涛 電波とともに五十年』電気通信振興会、1992年2月。
共著
- 金原淳、網島毅、永田良孝『無線に依る遠隔地間の写真電送に就て』逓信省工務局〈電信電話調査報告 第6号 其の1〉、1936年6月。
- 網島毅、鈴木竹雄、矢野一郎、酒井三郎 著、放送文化基金編 編『放送史への証言(1) ~放送関係者の聞き取り調査から~』放送関係者の聞き取り調査研究会監修、日本放送教育協会、1993年4月。
論文
博士論文
脚注
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- 初代 寺沢寛一 1949-1959
- 第2代 山本勇 1959-1963
- 第3代 松平正寿 1963-1967
- 第4代 松村定雄 1967-1969
- 事務取扱 岡田幸雄 1969-1970
- 第5代 博田五六 1970-1976
- 第6代 平島正喜 1976-1982
- 第7代 田中榮 1982-1988
- 第8代 角田稔 1988-1994
- 第9代 有山正孝 1994-2000
- 第10代 梶谷誠 2000-2004
- 第11代 益田隆司 2004-2008
- 第12代 梶谷誠 2008-2014
- 第13代 福田喬 2014-2020
- 第14代 田野俊一 2020-
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前身諸学校長 |
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中央無線電信講習所長 |
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(私立)無線電信講習所長 | |
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(官立)無線電信講習所長 | |
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中央無線電信講習所長 | |
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