紀元前449年(きげんぜん449ねん)は、ローマ暦の年である。
当時は、「ポティトゥスとバルバトゥスが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元305年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前449年と表記されるのが一般的となった。
他の紀年法
できごと
ギリシア
共和政ローマ
- 十人委員会によって制定された十二表法が正式に公布された。十二表法は、文字通り12枚の板に彫られてフォロ・ロマーノに掲げられ、全てのローマ人がそれを読み、内容を知ることができるようになった。
- 十人委員会の任期が満了しても、委員は辞任して後任を受け入れることを拒否した。委員会の一人アッピウス・クラウディウス・クラッスス・インレギッレンシス・サビヌスは、ウェルギニアという平民の女性を我が物とするために奴隷に落とす不合理な決定を下し、彼女は娘の純潔を守ろうとした父親に殺された。これにより十人委員会に対する平民の暴動が起こり、委員を辞任に追い込んだ。アッピウス・クラウディウスは逮捕され、裁判前に自殺したと言われている。
文学
誕生
死去
脚注
注釈
出典
関連項目
ウィキメディア・コモンズには、
紀元前449年に関連するカテゴリがあります。