厲共公
厲共公[1](れいきょうこう)は、秦の第17代公。悼公の子。躁公、懐公の父。 生涯悼公14年(紀元前477年)、悼公が薨去すると、後を継いで秦公となった。 厲共公2年(紀元前475年)、蜀の人が秦に来貢してきた。 厲共公16年(紀元前461年)、黄河に沿って溝を掘って大茘(だいり)[2]を攻撃し、その王城を取った。 厲共公21年(紀元前456年)、秦は初めて頻陽を県とした。この年、晋が侵攻して武城を取られた。 厲共公24年(紀元前453年)、晋において内乱が起き、晋は趙・韓・魏に分裂した。これより中国は戦国時代に入る[3]。 厲共公25年(紀元前452年)、晋の内乱で殺された智瑶の一族である智開が秦に逃れてきた。 厲共公33年(紀元前444年)、秦は義渠[4](ぎきょ)を撃ってその王を捕虜とした。 厲共公34年(紀元前443年)、薨去し、子の躁公が立って秦公となった。 脚注参考資料
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