米軍住宅→「米軍ハウス」も参照
米軍住宅(べいぐんじゅうたく)とは、在日米軍の軍人軍属およびその家族が居住する目的で建築された住宅。駐留軍の敷地内に建てられたものと、基地の敷地外に民間の手によって建てられたもの双方を指す。 「米軍ハウス」、「外人住宅」などとも呼ぶが、その場合は日本に返還され一般人の用に供されているケースが多い。 アメリカ軍では"Dependent house"すなわち「扶養家族住宅」と呼ぶ。 米軍住宅の歴史1945年(昭和20年)に日本が第二次世界大戦で敗戦し、アメリカ軍やイギリス軍を中心としたGHQによる日本の占領が始まると、占領実施のために大量の軍人や軍属が日本に常駐するようになった。そうした軍人のなかには、日本国内が比較的平穏に治安されていることもあって、妻子を呼び寄せ家族ぐるみで日本に住まう者も少なくなかった。高級将校は主に華族や資産家の洋式住宅を接収して住んだが、一般には旧日本軍基地跡などに戸建の住宅群が建設されここに住んだ。 その中心となったのは、最も多くの人員を日本に送り込んだアメリカ軍のもので、これら家族向け住宅は概ね各戸80m2 - 100m2クラスの木造平屋建てもしくは2階建てで、数十戸から数百戸単位の街区として建設され余裕ある町造りが成され、「リトル・アメリカ」とでも呼べる風景が広がっていた。 これらの地区は全体が関係者以外立ち入り禁止のフェンスで覆われており、大きな住宅地区ではそれ自体にPX(カミッサリー、基地内売店の意)、レストラン、学校、映画館などの諸施設を有し、独自の上下水道と浄化槽、更に各戸にはセントラルヒーティングをも完備していたことで軍人の家族が何不自由なく過ごせる環境が整えられていた。学校のない地区からは、ある地区へのスクールバスが運行されていた。 こうした住宅は、特に日本が朝鮮戦争の兵站地として機能した1950年代前半にかけて多く利用された。しかし、日本が主権を回復し、さらに朝鮮戦争が終結しアメリカ軍やイギリス軍を中心とした連合国軍の占領規模が縮小・集約されるにつれて、旧軍敷地そのものが多くは自治体へと返還され、これに依って付随する住宅も取り壊されるか権利上の諸問題で廃墟として残存するケースもある。 沖縄の外人住宅沖縄は、日本復帰が1972年と遅かったことや、ベトナム戦争等による米軍人員を収容するための住宅需要が高まり、民間投資によるアメリカ人向けの大規模な土地造成と住宅地建築が行われた。現在も県中部の宜野湾市、北中城村、沖縄市、うるま市、北谷町、読谷村、嘉手納町などには多数の「外人住宅」が存在し、新築物件には主に高級士官、古い物件には下級軍人や軍属および日本人が居住し、独特の街並みと地域社会を形成している。沖縄の外人住宅はその気候的特性により早い時期から鉄筋コンクリート造りとされ、また集合住宅の形態を取るものも多いのが特徴である。 米軍住宅の現在現在も日本国内には高層化されたものも併せて一万戸近い米軍住宅があるとされている。こうしたものは日本の「思いやり予算」との絡みや、敷地返還を要望する自治体との軋轢などが、在日米軍問題の中でも多く話題に挙がる状況となっている(別項参照)。 土地ごと返還された住宅の一部には立川基地跡地の様に取り壊されず現在も居住に供されているものもある(残堀川周辺)その日本離れした街区のイメージとも相まって不動産物件としては独特の人気を得ている。 現在の米軍住宅地かつての米軍住宅地
参考文献
脚注
関連項目
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