筑豊電気鉄道線
筑豊電気鉄道線(ちくほうでんきてつどうせん)は、福岡県北九州市八幡西区の黒崎駅前駅から同県直方市の筑豊直方駅までを結ぶ筑豊電気鉄道の鉄道路線である。路線記号はCK。「筑豊電気鉄道線」は案内上使用される路線名であるが[2]、『鉄道要覧』には記載がなく路線名は設定されていない[3]。 路面電車型の車両を使用しているが、本路線は全線が鉄道事業法に準拠する「鉄道」である。2015年2月までは、黒崎駅前 - 筑豊直方間のうち、黒崎駅前 - 熊西間は筑豊電気鉄道が第二種鉄道事業者、西日本鉄道(以下「西鉄」)が第三種鉄道事業者となっていた。この区間は元々西鉄北九州線の一部で、筑豊電気鉄道が乗り入れる形をとっていたが、2000年に西鉄が北九州線の熊西 - 折尾間を廃止した際に残る区間を軌道法による軌道から鉄道事業法による鉄道に変更した。2015年3月1日に西鉄から会社分割を受け正式に筑豊電気鉄道の資産となり、西鉄の第三種鉄道事業は廃止された[4][注釈 1]。 イギリスでライトレールなどの情報をまとめている第三者団体、ライトレール交通協会(Light Rail Transit Association: LRTA)では、本路線をライトレールに相当する鉄道として分類している[5]。 路線データ運行形態昼間時間帯は、全線通し列車が20分間隔で運転されている[6]。2023年11月のダイヤ改正前は、平日・土曜は黒崎駅前 - 筑豊中間間と全線通し列車が15分間隔で交互に運転されていた。 平日朝のラッシュ時間帯は、全線通し列車と黒崎駅前 - 筑豊中間・楠橋間の区間列車が5 - 10分間隔でほぼ交互に、平日夕方のラッシュ時間帯は、全線通し列車と黒崎駅前 - 楠橋間の区間列車が7 - 10分間隔で交互に運転されている。また、早朝・深夜には車庫への出入庫を兼ねた楠橋 - 筑豊直方間の区間列車がある。 従来すべての列車に車掌が乗務してきたが、2016年3月12日のダイヤ改正より朝・夕方ラッシュ時以外の時間帯で 3000形と5000形電車による列車を対象にワンマン運転が開始されている[7]。なお、誤乗防止のため3000形電車のみ方向幕をカラーに更新している。 昭和末期は日中楠橋発着と直方発着が約14分ずつ交互に、ラッシュ時にはこれ以外に三ヶ森・中間・楠橋発着と西鉄北九州線(1985年頃以降は八幡駅前まで、それ以前は幸町・砂津方面など)への直通列車が運行された。三ヶ森 - 黒崎車庫前間は概ね2分間隔で運行されていた。ただし、線路容量や車両運用の関係で筑鉄の車両の列車はひとつ手前の黒崎車庫前を終点とするものも約半数あった。1990年以降はサンリブ木屋瀬の開店による増客策で日中7 - 8分間隔の全線通し運転を基本としていたが、ダイヤ改正の度に減便しており特に筑豊中間以南では2012年以降、大幅な減便傾向にある。 また線内では営業車がすべて各駅に停車するため、設備面から通過運転が行えない。回送や非営業車であってもすべての駅に運転停車する。乗務員が直接乗り込もうとする乗客に対し、回送なので乗車ができない旨を案内している。 歴史北九州市(黒崎)から筑豊を経て福岡市へ至る鉄道として西鉄により計画された。 西鉄の直接の前身である九州電気軌道では大正時代に北九州と福岡市を結ぶ鉄道路線を計画したほか、西鉄の前身会社の一つである博多湾鉄道汽船でも北九州 - 福岡間の鉄道を計画し、1942年(昭和17年)の5社合併後の西鉄も同様の計画を出願したが、いずれも実現せずに終わった。 その後、1950年(昭和25年)12月にようやく北九州 - 福岡間(筑豊経由)の免許を取得して着工し、1959年(昭和34年)に筑豊直方駅まで達したが、以西は八木山峠がネックになった。自社単独でトンネルを掘るほどの資金力が無かったため着工に至らず、1971年(昭和46年)に直方 - 飯塚 - 福岡市新堀町間の免許を失効した。なお、1968年(昭和43年)に当時の国鉄により開業した篠栗線は、西鉄が計画していたルートとほぼ同じルートで建設された。現在、筑豊と福岡を結ぶ役割は福北ゆたか線(JR筑豊本線・篠栗線)が担っている。 また、貞元駅(現・熊西駅)から黒崎駅までの区間も西鉄北九州線とは別に独自の路線を建設する予定であったが、これも実現せず1974年(昭和49年)に免許が失効している。 西鉄および前身各社による北九州 - 福岡間鉄道路線の計画九州電気軌道による計画九州電気軌道では1911年(明治44年)から1914年(大正3年)の間にのちの西鉄北九州線にあたる門司 - 折尾間を開業したのち、1919年(大正8年)12月18日に折尾 - 福岡間47.27kmの軌道敷設特許を取得[8]。「九軌福岡急行電車」と名付けられた。1924年(大正13年)には門司 - 熊手間の軌道敷設特許を取得している[9]。 1928年(昭和3年)には福岡市に建設部を設置した。1929年(昭和4年)には折尾 - 福岡間の計画を熊手 - 福岡間、城山峠経由を唐津街道、古門往還(通称「殿様通」)経由に変更し(これにより計画距離が0.9km延長)、1931年(昭和6年)に工区を3つに分け宮司 - 吉塚間から着工している。 しかし、同じ1931年には九州電気軌道前社長の松本枩蔵による不正手形事件が発覚し[10]、事件は処理されたものの、九州電気軌道は415万円に及ぶ債務を負うこととなった。このため日本興業銀行から特別融資を受け償還したが、その特別融資の条件として工事の即時中断を余儀なくされ、1933年(昭和8年)9月21日付で門司 - 熊手間の特許を返納し、折尾 - 福岡間の起業廃止を実施した[11]。 博多湾鉄道汽船による計画九州電気軌道の子会社である九州土地興業では、九州電気軌道が福岡延長のため取得していた92,446坪の土地を1937年(昭和12年)5月29日に博多湾鉄道汽船に譲渡した。 土地を譲り受けた博多湾鉄道汽船は1924年(大正13年)から1925年(大正14年)にかけ新博多(のちの千鳥橋) - 宮地岳間(通称「貝塚線」、現・西鉄貝塚線)[注釈 2]を開業させていたため、この路線の延伸計画として「福門連絡鉄道」の名で宮地岳 - 折尾間の鉄道敷設免許を出願した。この際当時社長であった太田清蔵貴族院議員がその資金を得るため同社所有の粕屋線(現・JR九州香椎線)を鉄道省へ売却する要請を出したが、この時鉄道大臣だった小川平吉に賄賂を贈ったことが後に明るみに出て(いわゆる五私鉄疑獄事件)会社の信頼は一気に失墜する。さらに、1937年7月に日中戦争が勃発したことで臨時資金調整法が施行され、鉄道敷設のための資金調達はいよいよ困難となった。ちなみに計画では宮地岳より見坂峠、三郡山地を越えて飯塚へ出るルートであったが、九州電気軌道の計画ではこのルートの東側を並行する形であった。 その後、1941年(昭和16年)10月に「筑豊電気鉄道」の名で黒崎 - 福岡間59.6kmの鉄道敷設を出願したが、翌年戦時体制(陸上交通事業調整法)に対応するため博多湾鉄道汽船、前述の九州電気軌道など計5社が合併、西鉄が成立した時に、鉄道省より前身会社からの線路延長事業の見直しを指導され、鉄道敷設申請書の返付を受けたため実現せずに終わった。見直しを指導された区間はこの区間のほか、小倉 - 行橋間(新設)、土井 - 新飯塚間(新設)、雑餉隈 - 博多間(雑餉隈線)、大牟田 - 熊本間(大牟田線延伸計画)があったが、いずれも実現せずに終わっている。 西鉄による計画5社合併で成立した西鉄は、1943年(昭和18年)、黒崎 - 福岡間の鉄道敷設を出願した(計画は博多湾鉄道汽船時代のものと同じ)が、太平洋戦争の戦局悪化により却下された。戦後の1946年(昭和21年)に西鉄が「筑豊電気鉄道」の名で再び黒崎 - 福岡間の鉄道敷設を出願したが、これも却下された。 その後、西鉄では1949年(昭和24年)に三たび黒崎 - 福岡間の鉄道敷設を出願し、1年後の翌1950年(昭和25年)12月23日付で地方鉄道敷設免許(鉄監第2043号)を取得、1951年(昭和26年)2月15日 に黒崎 - 福岡間の運営会社として筑豊電気鉄道を設立した。 1954年(昭和29年)に計画を一部修正し、八木山に4.5kmのトンネル、遠賀川に360mの橋梁を架ける方針に変更。黒崎 - 直方16.3km、直方 - 飯塚13.6km、飯塚 - 福岡27.5kmの3つの工区に分け、第1工区として黒崎 - 直方間の工事に着手。しかし、実際には黒崎ではなく、貞元(現在の熊西)から直方へ向けて工事が始まり、1956年(昭和31年)3月21日に貞元 - 筑豊中間間が開業した。 開業後
活性化策大手私鉄の完全子会社の路線であるため、これまで目立った公的支援は受けていなかったが、乗客減が続いている[注釈 3]ことから、沿線の北九州市・中間市・直方市は2014年度から当路線の維持と活性化に関する複数の支援を行うことになった。 三市合同で新型車両やICカードシステムの導入などの設備投資に対する支援事業を2017年度まで行うほか、直方市は直方駅周辺の市街地整備事業を2013年度に終えたことを受け、当路線を筑豊直方駅からJR直方駅付近まで延伸することについてその可否を調査するための予算を計上。同年6月より毎月一度会社側と市及び福岡県の三者による会合を開き、需要の見通しやルートなどを検討している[17]。 駅一覧全駅福岡県内に所在。
備考
脚注注釈出典
参考文献
関連項目 |