第41軍 (日本軍)
第41軍(だいよんじゅういちぐん)は、大日本帝国陸軍の軍の一つ。 編成当初は振武集団(しんぶしゅうだん)という第14方面軍指揮下の第8師団を基幹とした集成集団であったが、1945年(昭和20年)3月19日に第41軍に昇格し、第14方面軍の戦闘序列に組み込まれた。 尚武・建武・振武のルソン島防衛拠点の三分割第14方面軍は、フィリピンのルソン島を防衛するために、ルソン島を三分割して防衛することとした。そこで北部拠点を第14方面軍(尚武集団)の直轄集団が担任することとし、クラーク拠点に建武集団、そして中南部に振武集団を編成し配備した。 なお、ルソン島防衛の最大拠点は第14方面軍直轄の尚武集団地域とされたため、ルソン島の中南部に配備された部隊の多くにも北部への転進が命ぜられた。 振武集団の編成経緯振武集団の作戦地域は、ルソン島のマニラを含む中南部一帯とされた。振武集団長には、第8師団長の横山静雄中将が任命され、振武集団司令部は第8師団司令部を中核に形成された。 振武集団は1944年(昭和19年)12月17日に編成が発令され、その指揮権の発動日は1945年(昭和20年)1月1日とされた。だがこの時点で振武集団に所属することが確定していた師団は第8師団(歩兵第5連隊欠)と第105師団のみであった(第105師団にも後に北部転進が命ぜられる)。 振武集団の作戦地域は、2個師団で防衛するには広大であるため、アメリカ軍が上陸した際には、アメリカ軍との決戦を避け、主力をもってマニラ東方の山中に複郭陣地を形成して篭城しつつアメリカ軍を消耗させる長期持久策を採用することとなっていた。 振武集団の指揮権発動日になっても、第14方面軍主力のルソン島北部地域への転進の列は続いていた。このため振武集団の編成も北部転進の行方に左右され幾度か変動した。 最終的には、振武集団の基幹戦力は第8師団および第105師団の一部が確定した。これらの部隊を中核に、マニラ周辺の後方部隊、航空部隊などの兵員を加えて、マニラ東方山中に3つの集成兵団(河嶋兵団、小林兵団、野口兵団)、南部バタンガス州にひとつの集成兵団(藤兵団)を編成して防衛することとなった。マニラに残留したマニラ海軍防衛隊(海軍第31特別根拠地隊基幹)を含めて、その数、陸海軍約10万5千人といわれる。 基本情報
振武集団(第41軍)の人事司令官※兼第8師団長:1942年(昭和17年)6月26日 - 1945年(昭和20年)3月19日、兼第8師団長事務取扱:1945年(昭和20年)3月19日 - 終戦 参謀長
参謀副長
参謀部
第8師団司令部振武集団の司令部機能は第8師団司令部に寄っているので、あえて併記する。重複するものは割愛する。
指揮下の主要部隊編成振武集団の指揮下の部隊は、第8師団主力と第105師団の一部を中核とする。だがその構成員の多くは解体された第4航空軍やマニラにいた後方勤務要員を臨時に組み込んだものだった。その編成が雑多なため振武集団の指揮下の部隊の編成は、時期によって若干の差異があるが、昭和20年2月から3月を基準にすると概ね以下のようになる。振武集団直轄部隊以外の編成表は省略した。 振武集団直轄部隊
河嶋兵団
小林兵団
野口兵団
藤兵団
マニラ海軍防衛隊
※陸軍のマニラ支隊(野口勝三大佐:陸士30期)を小林兵団より配属されていた。
当初、野口兵団の前身である野口支隊の指揮下にあったが、1945年(昭和20年)3月19日に集団直轄部隊として編成される。 第41軍戦闘序列 1945年(昭和20年)3月19日
☆独立無線第120小隊(威12981)同軍第8師団の指揮下にあったと推測される※防衛省研究所資料室談。 1944年9月満州・林口にて臨時動員により電信第4連隊(満州第7250部隊、敗戦時は築7250部隊)から抽出して編成。 11月11日マニラ上陸後、同東方拠点で戦闘。1945年9月2日戦闘終結。
航空関連地上部隊
脚注
参考文献
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