第七六三海軍航空隊第七六三海軍航空隊(だい763かいぐんこうくうたい)は、日本海軍の部隊の一つ。フィリピン防衛の主力爆撃隊として、大東亜戦争終盤に哨戒・爆撃・雷撃・特攻に従事した。七六三空。 七六三空編制までの経緯七六三空は、第七六二海軍航空隊から独立して1944年(昭和19年)10月10日に編成された航空隊である。1944年(昭和19年)2月から3月にかけて、基地航空隊の充実化を目指して、第五二二海軍航空隊・第五二四海軍航空隊・第五四一海軍航空隊、そして七六二空を相次いで編成し、第一航空艦隊第六二航空戦隊に編入された。この4個航空隊は、有力な攻撃航空隊として養成すべく、5月5日付で連合艦隊附属に引き抜かれた。6月15日、第二航空艦隊を新たに編成したうえで編入し、「あ号作戦」には投入せずに訓練を重ねた。あ号作戦が失敗したことを受け、フィリピン戦線に投入すべく再編し、7月10日より七六二空に一本化した。 しかし、旧五二二・五二四・五四一空は、新機種の銀河および彗星を主力としたため、器材調達の遅れと搭乗員養成の遅れが目立ち、実用化が大幅に遅れた。さらに7月23日、各航空隊から精鋭を集め、全航空任務が可能な「T攻撃部隊」の結成が発表され、旧七六二空が召集された。T攻撃部隊は「丹作戦」に向けて実戦投入の準備を進めていたが、各部隊精鋭の寄せ集めにすぎず、実施能力に疑問符が打たれていた。そこで、T攻撃部隊を正式に一つの部隊として七六二空にまとめる代わりに、遅々として実戦投入の目処がつかない旧五二二・五二四・五四一空を七六二空から抹消し、新たに七六三空を編成することとなった。以下は、七六三空編制にいたるまでの3個航空隊の概略である。 第五二二海軍航空隊1944年(昭和19年)3月1日、豊橋飛行場を原隊として木更津飛行場で開かれた陸上爆撃機隊。田中次郎司令以下、定数96機の銀河隊とされ、「轟部隊」の符牒を持つ。9月15日の東号作戦で12機体制の哨戒を行ったのが五二二空時代唯一の作戦参加である。一本化後は攻撃第406飛行隊に再編され、8月上旬の台湾進出を目指したが、器材・人員の調達が不振で、9月11日の「ダバオ誤報事件」を受けた沖縄小禄飛行場進出命令が初出撃となった。10月上旬にようやく全機が出水飛行場に進出した。 第五二四海軍航空隊1944年(昭和19年)3月15日、三沢飛行場を原隊として豊橋飛行場で開かれた陸上爆撃機隊。和田鉄二郎司令以下、定数48機の銀河隊とされ、「曙部隊」の符牒を持つ。常時稼動機は10機に満たなかった。一本化後は攻撃第405飛行隊に再編され、8月上旬の宮崎進出を目指したが、やはり10月上旬の出水進出が精一杯だった。 第五四一海軍航空隊1944年(昭和19年)3月15日、松山飛行場を原隊として松山飛行場で開かれた艦上爆撃機隊。鈴木由次郎司令以下、定数48機の彗星隊とされ、「響部隊」の符牒を持つ。彗星の調達は進捗せず、九九式艦上爆撃機で練成し、6月東号作戦には九九艦爆7機・彗星1機を木更津に派遣している。一本化後は攻撃第3飛行隊に再編され、8月上旬に国分飛行場に進出したが、なぜか鹿屋飛行場に展開する七六二空陸攻隊との共同訓練には着手しないまま七六三空に統合された。 七六三空の沿革台湾沖航空戦で七六二空が壊滅的な被害を受けたため、フィリピン戦線に投入できる爆撃隊は七六三空のみとなった。まもなくフィリピンの地上戦が始まったため、七六三空は10月23日までにルソン島クラーク飛行場に進出した。
彗星3機で機動部隊を夜襲するが、往路で2機喪失し断念。
編制から解隊までの10ヶ月のうち、作戦に従事できたのは序盤の3ヶ月に過ぎない。終戦をもって解散した。 主力機種歴代司令
関連項目参考文献 |