穆侯(ぼくこう、生年不詳 - 紀元前785年)は、中国の西周時代の晋の君主。姓は姫、名は費生[1]。青銅器「弗盨」[2]の銘文では、名は弗[2]、字は邦父。北趙晋侯墓地64号墓出土銘文の「晋侯邦父」に相当する人物と推測されている[3]。
生涯
晋の献侯の子として生まれた。紀元前812年、献侯が死去すると、後を嗣いで穆侯が晋侯として即位した。紀元前808年、斉の公女を迎えて夫人とした。紀元前805年、条を攻撃した。太子仇が生まれた。紀元前802年、千畝を攻撃して戦果を挙げた。末子が生まれ、名を成師といった。晋人の師服は穆侯のふたりの息子の命名を不吉なものとみなし、禍乱を予言した。紀元前785年、穆侯は死去し、弟の殤叔が晋侯として即位した[4]。
脚注
- ^ 『史記』晋世家による。同書十二諸侯年表は名を弗生とする。『史記索隠』晋世家所引鄒誕本は、名を弗生、あるいは㵒生とする。
- ^ a b 「弗」の原文は「𦥑」のしたに「冉」のしたに「土」。
- ^ 徐天進「晋侯墓地的発現与研究現状」
- ^ 『史記』晋世家
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成師(桓叔)の曲沃就封で、晋は翼の宗家と曲沃の分家に分裂
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翼宗家 |
- 昭侯前745-前739
- 孝侯前739-前724
- 鄂侯前723-前718
- 哀侯前717-前710
- 小子侯前709-前706
- 晋侯緡前706-前679断絶
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曲沃分家 |
- 桓叔前745-前731
- 荘伯前731-前716
- 武公前716-前678
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- 武公前678-前677
- 献公前676-前651
- 奚斉前651
- 卓子前651
- 恵公前650-前637
- 懐公前637-前636
- 文公前636-前628
- 襄公前627-前621
- 霊公前620-前607
- 成公前606-前600
- 景公前599-前581
- 厲公前580-前573
- 悼公前572-前558
- 平公前557-前532
- 昭公前531-前526
- 頃公前525-前512
- 定公前511-前475
- 出公前474-前457
- 哀公前456-前438
- 幽公前437-前420
- 烈公前419-前393
- 孝公前392-前378
- 静公前377-前376
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