昭公(しょうこう、生年不詳 - 紀元前526年)は、中国の春秋時代の晋の君主。姓は姫、名は夷。国内で六卿の勢力が強くなり、公室は弱体化した。
生涯
晋の平公の子として生まれた。紀元前532年7月に平公が死去する[1]と、後を嗣いで昭公が晋公として即位した[2]。紀元前530年、晋の荀呉(中行穆子)が鮮虞に道を借りて昔陽に攻め入り、肥を滅ぼした[3]。紀元前529年、昭公は斉・魯・宋・衛・鄭・曹・莒・邾・滕の諸侯らと平丘で会合した。同年、荀呉が著雍から上軍を率いて鮮虞に侵攻し、中人に達して凱旋した[4]。紀元前528年、邢侯と雍子が鄐の田土をめぐって争っていたが、羊舌鮒(叔魚)が邢侯に罪ありと判決したため、邢侯が怒って、羊舌鮒と雍子を殺害した。韓起(韓宣子)の諮問を受けた羊舌肸(叔向)は3人を同罪とし、これによって邢侯は処刑され、雍子と羊舌鮒の遺体が市に晒された[5]。紀元前527年、荀呉が兵を率いて鮮虞に進攻し、鼓を包囲した[6]。紀元前526年8月己亥、昭公は死去し[7]、子の頃公が晋公として即位した[2]。
脚注
- ^ 『春秋』昭公10年
- ^ a b 『史記』晋世家
- ^ 『春秋左氏伝』昭公12年
- ^ 『春秋左氏伝』昭公13年
- ^ 『春秋左氏伝』昭公14年
- ^ 『春秋左氏伝』昭公15年
- ^ 『春秋』昭公16年
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成師(桓叔)の曲沃就封で、晋は翼の宗家と曲沃の分家に分裂
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翼宗家 |
- 昭侯前745-前739
- 孝侯前739-前724
- 鄂侯前723-前718
- 哀侯前717-前710
- 小子侯前709-前706
- 晋侯緡前706-前679断絶
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曲沃分家 |
- 桓叔前745-前731
- 荘伯前731-前716
- 武公前716-前678
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- 武公前678-前677
- 献公前676-前651
- 奚斉前651
- 卓子前651
- 恵公前650-前637
- 懐公前637-前636
- 文公前636-前628
- 襄公前627-前621
- 霊公前620-前607
- 成公前606-前600
- 景公前599-前581
- 厲公前580-前573
- 悼公前572-前558
- 平公前557-前532
- 昭公前531-前526
- 頃公前525-前512
- 定公前511-前475
- 出公前474-前457
- 哀公前456-前438
- 幽公前437-前420
- 烈公前419-前393
- 孝公前392-前378
- 静公前377-前376
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