稲木 (海防艦)
稲木(いなぎ)は、日本海軍の海防艦。鵜来型海防艦の12番艦。艦名は香川県の稲毛島にちなむ。 艦歴起工-竣工-訓練マル戦計画の海防艦、第4701号艦型の1番艦、仮称艦名第4701号艦として計画。1944年(昭和19年)5月15日、三井造船玉野造船所で起工。9月1日、香川県高松市の離島、旧稲木島から「稲木」と命名され鵜来型に分類されて同級の12番艦に定められる。25日、進水。10月21日、艤装員事務所を設置。25日、艤装員長に山田忠太少佐が着任。12月16日竣工。山田少佐(稲木艤装員長)は稲木海防艦長となる。同日附で、稲木艤装員事務所は撤去された。本籍を呉鎮守府籍に定められ、呉鎮守府警備海防艦となり呉鎮守府部隊呉防備戦隊に編入。1945年(昭和20年)1月26日、海上護衛総司令部第一護衛艦隊に編入された。 船団護衛1945年(昭和20年)1月29日朝、稲木は第81号海防艦と共に呉を出港し、同日午後に門司に到着。31日、稲木は海軍配当船あまと丸(石原汽船、10,238トン)、陸軍配当船富士山丸(飯野海運、10,238トン)からなるヒ95船団を第66号海防艦、第81号海防艦と共に護衛して門司を出港。船団は朝鮮半島沿岸、中国大陸沿岸、海南島、クイニョン、カムラン湾と仮泊を続けながら航海を続け、2月14日に昭南に到着。 稲木、第66号海防艦、第81号海防艦はあまと丸、富士山丸、海軍配当船光島丸(三菱汽船、10,045トン)からなる復航のヒ96船団を護衛することとなり、22日に昭南を出港する[1]。しかし、27日未明、カムラン湾口付近でアメリカ潜水艦ブレニー(USS Blenny, SS-324)の雷撃を受け、あまと丸が被雷沈没した。瓊州海峡通過中の3月1日にはB-24による爆撃を受け、光島丸が直撃弾を受けた。そのため光島丸は第66号海防艦と共に船団から分離され、修理のため香港に回航される[2][3]。稲木と第81号海防艦は至近弾で損傷した富士山丸を護衛して北上を続け、大陸沿岸と朝鮮半島沿岸を経由して13日夕方に門司に到着[2][4][5]。3月14日、稲木は門司を出港し、15日に呉に到着。呉海軍工廠にて修理・整備作業を受けた。なお、修理を終えた光島丸も27日に門司に到着し[4]、富士山丸と光島丸が南方から帰り着いた最後のタンカーとなった。 整備を終えた稲木はAS3作戦に参加するため31日に呉を出港するが、同日夜に部埼灯台沖で触雷し小破。そのため呉に反転し修理を受ける。4月25日、第12海防隊に編入。 28日朝、稲木は海軍一般徴用船美保丸(日本郵船、4,667トン)単独からなるモシ05船団を姉妹艦の男鹿、第59号海防艦と共に護衛して門司を出港。鎮海、加沙島を経由して上海へ向かった。しかし、30日に船団はアメリカ潜水艦トレパン(USS Trepang, SS-412)とスプリンガー(USS Springer, SS-414)に発見される。最初にスプリンガーが攻撃を仕掛けてきたが、稲木以下護衛部隊が先にスプリンガーを発見したこともあって追い払うことに成功した。しかしその隙にトレパンが雷撃を敢行し、美保丸が被雷沈没してしまった。船団が消滅してしまったため、稲木以下護衛部隊はそのまま上海へ向かったが、5月2日にスプリンガーに再度発見されてしまう。スプリンガーは魚雷を発射し、男鹿に魚雷が命中。男鹿は瞬時に沈没した。 8月8日、稲木は船団を護衛して釜石を出港し、八戸に到着。翌9日朝、八戸はアメリカ軍第38任務部隊艦載機の空襲を受ける。稲木は午前9時頃、空母「ランドルフ」と「エセックス」から発進したF6F、SB2Cによる空襲を受けて後甲板に直撃弾を受けて機械室が大破。夕方頃に沈没した[6][7]。海防艦長の山田忠太少佐以下乗員29名が戦死。 9月15日、稲木は鵜来型海防艦から削除され、帝国海防艦籍から除かれた。 1947年(昭和22年)2月1日時点で、稲木は八戸港で沈没要引揚状態にあり、大湊地方復員局所管の行動不能艦艇(特)に定められる。 1964年(昭和39年)、稲木は浮揚され解体された。 海防艦長
出典注
脚注
参考文献
外部リンク |