福田 (滑川町)
福田(ふくだ)は、埼玉県比企郡滑川町の大字[4]。郵便番号は355-0803[2]。 地理滑川町北部に位置し、滑川と中堀川に挟まれた開析谷の低地及び丘陵地にあたる[4]。北東で土塩、東で山田、南東で羽尾、南で中尾、南西で伊古、西で和泉・菅田、北西で熊谷市小江川と接する。滑川町内の行政区では「第1区(上福田)」と「第2区(下福田)」を合わせた地域が大字福田にあたる。東部は国営武蔵丘陵森林公園、西部は高根カントリークラブのそれぞれ一部となる。地内ではかつて字大木で大谷石に似た荒粒の凝灰岩が切り出され、「福田石」として販売されていた[5]。この福田石は淡緑色の斜長流紋岩質凝灰岩で、比企丘陵を構成する第三紀・中新世の福田層に属する[5]。加工が容易なため石垣の切石や石燈籠などに用いられたが1971年(昭和46年)頃以降は採掘は中止されている[5][6]。現在採掘場跡は森林霊園の納骨堂として利用されている[5][6]。 河川湖沼周辺は埼玉県内でも溜め池の多い地域であり、福田地内にも多くの溜め池、湖沼が存在する。 また、以下の沼は国営武蔵丘陵森林公園内に位置する。 山岳
小字
歴史縄文時代より集落が存在し、縄文中後期・古墳時代前後期の集落跡である馬場遺跡や、古墳前後期の集落跡である円正寺・中在家・古姓前・東両表・大木・小川谷・久保田遺跡、古墳後期の台原・矢崎・栗谷・粕沢古墳群が見られる[4]。戦国時代には既に比企郡に属し、明応4年(1495年)正月18日銘の真福寺鰐口に「奉寄進武州比企郡福田郷 別所真福寺鰐口(中略)檀那同所四郎太郎」との記述がみられ、また後北条氏の所領役帳である『小田原衆所領役帳』には小田原北条氏の家臣であり他国衆の上田案独斎の所領として「卅一貫六百卅七文 同 福田塩川分 同(比企郡 福田塩川分 卯検見)」とあり、弘治元年卯に検地を行ったことがわかる[4]。また江戸時代に書かれた『新編武蔵風土記稿』によれば、古くから水房庄(水房荘)・松山領に属したといわれる[8][4]。福田村は徳川家康が江戸入府の後は直轄領であったが文禄元年(1592年)より旗本酒井作右衛門重勝の知行として賜る[8]。以降代々作右衛門の知行となったが、天保14年(1843年)に天領となり、翌年の弘化元年(1844年)に一部が川越藩領になった。嘉永元年(1848年)より全域が川越藩領になったが、明治2年(1869年)には全域が上野前橋藩領となった[4]。「元禄郷帳」によれば村高は1,127石余[4]。幕末から明治初期の主な産品は米・大麦・絹・木綿・薪[4]。また、この頃の小名として両表・中郷・湯谷が挙げられる[4]。1889年(明治22年)4月1日町村制施行により福田村は近隣の山田村・土塩村・和泉村・菅田村と合併し新たに成立した福田村の大字福田となり、村役場が置かれた[9][4]。1954年(昭和29年)11月3日には福田村の宮前村との合併により、滑川村の大字に、1984年(昭和59年)11月3日には滑川村の町制施行により滑川町の大字となった。滑川の氾濫により1947年(昭和22年)のキャサリン台風、1949年のキティ台風、1966年(昭和41年)の台風4号・26号の際に被害を受けている[4]。 地名の由来この地に土着した源義賢の家臣8人の子孫が13世紀前半の天福年間に義賢の霊を祀り、天福の福と田圃の田をとって「福田」と称したといわれる[4][8]。 沿革
世帯数と人口2017年(平成29年)10月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
小・中学校の学区町立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[10]。
交通鉄道地内に鉄道は引かれていない。 バス
道路
寺社
施設
脚注
参考文献
関連項目外部リンク
|