福田喜東福田 喜東(ふくだ よしはる、1905年(明治38年)5月26日[1] – 1983年(昭和58年)7月15日[1][2])は、昭和期の官僚、弁護士、政治家。衆議院議員。 経歴母の生家[3]の大分県宇佐郡四日市町[1][3](現宇佐市)で生まれる。第三高等学校を卒業[4]。1927年(昭和2年)12月高等試験行政科試験に合格し[4]、司法科試験にも合格した[5]。1928年(昭和3年)[注 1]東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業[2][3]。同年、内務省に入省し千葉県属に任官した[2][4]。 以後、社会局属、国際労働機関在勤(ジュネーヴ)、社会局事務官、企画院調査官、東亜研究所参与、企画院書記官、商工省事務官兼書記官・振興部金融課長兼施設課長、総務課長兼工務課長、企業局工政課長、絹毛課長、商工組合中央金庫監理官、熊本営林局総務部長、千葉県教育民生部長、神奈川県労働部長、神奈川労働基準局(現神奈川労働局)長などを歴任し[1][4][5][6]、1948年(昭和23年)に退官した[3]。 1949年(昭和24年)1月、第24回衆議院議員総選挙に大分県第2区から民主自由党公認で出馬して初当選[1][2][3][7]。第25回総選挙では次点で落選し[7]、1953年(昭和28年)4月の第26回総選挙で再選され[8]、衆議院議員を通算2期務めた[1][2][3]。この間、民主自由党文化副部長、自由党政調会農林副部長、同農林部長、同林業対策部長、同災害対策部長などを務めた[2][3]。その後、第27回、第28回総選挙に立候補したがいずれも落選した[8]。 その他、大分県森林組合連合会会長、同林道協会会長、全国森林組合連合会副会長、全国林道協会監事なども務め[1][2]、東京と福岡県築上郡吉富町で弁護士を開業した[3]。 著作
親族脚註注釈
出典参考文献
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