福山 (城下町)福山(ふくやま)は、備後国深津郡にあった福山城の城下町。現在の広島県福山市中心部。元和8年(1622年)頃に造られ、明治6年(1873年)に福山城が廃城されるまで、備後国の中心地として栄えた。 概要「福山」はほとんどが田畑や湿地帯に福山城築城と平行して新規に建設された街である。街の大部分は「総構え」と呼ばれる外郭に囲まれ身分毎に居住区域が分けられていた。南側と西側は藩士の居住する侍屋敷が大半を占め、町屋は東側から南東にかけて集中していた。城下への入口や北部の吉津川対岸など戦術上重要な場所には寺社地や足軽町が置かれ籠城時に防備を補間する役割を持っていた。侍屋敷は面積では町屋の約3倍を占めるが江戸時代を通じて構成に大きな変化はなく、他方、町屋は地子を免除して積極的に移住者を募った[1]ことなどから次第に範囲を拡大していき、築城初期に12町を数えた町は水野末期までに30町に増えたといわれる[1]。 明治時代になると侍屋敷の多くは売却され農地などに転用されていったが、町屋の集中した城下東部は「本通り」を軸として福山市街の中心地となっていった。 この町並みは昭和時代までよく残されていたが、福山大空襲によりほとんどが焼失して昭和40年(1965年)の区画整理により大きく姿を変えた。また、このときに町名も大幅に変更され江戸時代からの伝統的な町名はほとんどで廃止された。 今日、辛うじて城下町の風情を残すのは空襲を焼け残った城北東側に位置する吉津町の周辺で旧上水道や城下町特有の「鍵の手」の道が残されている。 歴史福山の誕生以前の様子については近年まで詳しいことは分かっていなかったが、平成14年(2002年)に市内の胎蔵寺にある釈迦如来像から古文書が発見されたことなどから、大きく研究が進んだ。 かつては山並みの迫る北部を除いた大部分は海が間近に迫る芦田川のデルタ地帯となっていて、大部分が葦などの広がる荒涼とした湿地帯だと考えられていたが[2]、実際には平安時代末期頃には福山城西側周辺から市内本庄町にかけて「杉原保」と呼ばれ石清水八幡宮の所領となっており[3]、その中心地は地名などから現在の福山城周辺から木之庄辺りに存在したと考えられていて一帯は白子村という地名も存在した。また、近郊には芦田川を挟んで同様に古い歴史を持つ「草戸」(草戸千軒町遺跡)と呼ばれる村があり、深い関係があったようである。 鎌倉時代には備後国南部の国人である杉原氏が杉原保(杉原の氏は杉原保に由来すると思われる)を支配し、詳細な場所は不明だが同一族の杉原信平・為平兄弟により「能満寺」と呼ばれる寺が建てられたといわれ、福山城が建てられる丘陵(常興寺山)の頂上付近には同氏により「常興寺」が建てられた。また、正確な時期は不明だが常興寺山の北側で現在の福山八幡宮から妙政寺にかけての一帯にはかつて「永徳寺」という寺が存在し広大な敷地を有していたが福山城築城までに廃れたといわれる[4]。杉原氏の支配は戦国時代まで続くが安土桃山時代になると備後国は福島正則の所領となり、慶長6年(1601年)の検地(福島検地)で常興寺山西側の杉原保は野上村と改称された。福島氏の時代には備後南部の中心地は福山城から北東約6キロメートルに位置する西国街道沿いの神辺となり、「神辺城」が備後国の政庁として整備された。海に対しては福山城から南約12キロメートルにある沼隈半島南端の鞆の浦が要衝となっていた。 元和5年(1619年)、備後国を治めていた福島正則が改易され水野勝成が入封すると神辺城に代わる新たな城が築かれることになり、深津郡野上村の常興寺山(常興寺周辺)一帯が選定された。新たな城の築城に平行し周囲は城下町が整備されることになり、ここに城下町「福山」が誕生した。 城下町の大部分は新開地であったこともあり、前述の通り以前は荒涼とした湿地帯を切り開いて形成されたと考えられていたが、平成19年(2007年)の発掘調査で城下南部(現在の福山駅前)の位置から稲作の痕跡が検出されるなど[5]、近年はある程度開発が進んでいた可能性が高いと考えられるようになった。築城は元和6年(1620年)に芦田川の流れを城の北側にある吉津川に分流しようとする工事が大水害により中断されるなど困難を極めたといわれ、福山城は築城開始から3年近くの歳月を要した元和8年(1622年)に完成した(藩の詳細な歴史については「備後福山藩」を参照のこと)。 築城に際して城地に含まれる常興寺は近隣の吉津村に移転され、城下西側(現在の西町一帯)となる野上村は城下南部の新開に移され現在の「野上町」となった。このため、旧野上村は「古野上村」と呼ばれた。なお、近年まで常興寺は戦国時代には廃れていた[2]とされていたが、前述の胎蔵寺の文書発見に伴う資料[6]の再検証により少なくとも寛永16年(1639年)までは存在が確認されている。また、野上村についてもこれまで寒村的な扱いであった[2]が、これも資料の不足などから村の移転が見過ごされ、移転前と移転後の両者が混同されたことにより誤解されたもので、実際には古代からの歴史を持ち慶長6年(1601年)の時点で800石あまりの生産高を持つ有力な村であった。この他、芦田川を挟んだ神島周辺にあった神島市(市場)は追手御門前に移され、神辺城下からは多くの寺社が移転させられるなど、周囲の様々な施設を再配置し都市機能が整備された。 福山は築城初期には12町を数え水野末期までに30町に増えたといわれる。最初期の町並みの様子は資料がなくよくわかっていないが、追手御門前にあった町屋は火災を契機として寛永18年(1641年)に周囲の寺社と共に城下南東に移されたという。その後は町割り自体に大きな変更が加えられることはなかったが、町域は町の発展と共に城下の外側へと拡大していった。水野家の断絶により、松平氏、阿部氏と続くがこの時代になると城下の規模は大きく変わらず明治時代まで続いた。 幕末の慶応4年(1868年)には福山が長州軍(新政府軍)の攻撃を受けることになり、城下の手前まで進入した長州軍は城の北西(現在の市内北本庄町)にある円照寺に陣取り福山城の北側から大砲による攻撃を行い城北から進攻し小丸山や松山から城に銃撃を浴びせるが本格的な攻撃が始まる前に福山藩は恭順を許されたため、福山は大きな被害を受けることを免れた。 明治維新後は廃藩置県により福山藩は福山県となり、それから数年の間に県名や県域の変更を繰り返した。そして、福山城は明治6年(1873年)の廃城令により廃城とされ城下町としての福山もその役割を終えることになった。この後、「福山町」となった福山はしばらく衰退の時代を迎えるが、明治24年(1891年)の山陽鉄道開通などにより再び勢いを取り戻すことになる(廃藩置県後の歴史については「福山市」を参照のこと)。 年表
主要施設下屋敷かつての城下南端、現在の中央図書館(まなびの館ローズコム)から南小学校にかけての一帯には広大な敷地を有する藩主の下屋敷が建てられていた。下屋敷は享保7年(1722年)に火事で大部分の建物を焼失し、その後は「御茶屋」が建てられ休憩所として使われていたようである[4]。嘉永7年(1854年)に敷地の西側に藩校「誠之館」が建てられ東側は操練場(練兵場)として使われた[9]。操練場跡は明治時代に売却されて市街地となり痕跡はほとんど残されていない。 侍町福山の南側から西側にかけては藩士の居住する侍屋敷が広がっていた。その範囲は城下の約3分の2を占めるが江戸時代を通じて構成に大きな変化はなかった。明治時代になると侍屋敷は国有となり多くの屋敷が売却されて農地などに転用されていった。わずかに残された屋敷も福山大空襲で焼失したり開発により消滅するなどし、現在その痕跡はほとんど残されていない。
町屋城下東側
城下西側
城下南側
城下北側
寺社地福山城の寺社地は城下の出入口と山並みの迫る北側に集中して配され、総構えの防備を補う役割が与えられていた。特に東側の笠岡街道(鴨方往来)沿いは「寺町」と呼ばれ水野家菩提寺の賢忠寺を始め多くの寺院が集中した。福山城の城下町は新規で造られた街であるため、寺社のほとんどは城下町の整備と共に各地から集められ、その分類は下記の3系統に分けられる。 これら城下の寺社は戦前まで創建からの建築を残すものも少なくなかったが、多くは福山大空襲で焼失したり戦後の区画整理などで移転するなどして江戸時代の姿を留めるものはわずかとなっている。 寺町
城北
城西河川・運河入川福山城から南東に流れる運河「入川」は瀬戸内海まで通じる運河で明治時代に山陽鉄道が建設されるまで物流の中心となっていた。外堀南東端から瀬戸内海(備後灘)まで城下町を分断するようにほぼ直線で敷かれ幅は城下周辺で14~15間(約42~45メートル)あったが水深は浅く干潮時には干上がっていた。城下東南端にはこの運河に接して藩の船を泊める「舟入」があり、城下から出た場所にも係留場があった。ちなみに水野家の御座船は巨大すぎて入川には入れず沖合の田尻(現在の田尻町)に係留されたといわれる。当初の入川は城下を出るとすぐ海に達する短いものであったが、福山の干拓が進むと共に延伸されていき、明治時代までに約5kmの全長になった。明治後期になると上流から徐々に埋め立てられ、2008年現在は福山芸術文化ホール(リーデンローズ)から先が残されている(今日の福山港)。入川には「木綿橋(新橋)」、「天下橋(本橋)」と呼ばれる2本の木橋(共に現在の船町)が架けられ、現在その跡にはそれぞれ石碑が建てられている。また、平成18年(2006年)から入川があったことを示すため跡地の道路を水色で塗装する事業が始まっている。 吉津川吉津川は城下北西の芦田川(現在の市内山手町付近)から分流し福山の北側から東側に回り込み入川(現在の福山港)に注ぐ川である。築城時に切り開かれ本来は芦田川の本流になる計画であったが工事中の洪水により計画が変更され支流にされたといわれる。吉津川は福山城の総構えの堀の役割を持ち、堀の水の水源でもあるなど、城の防衛に極めて重要な役割を持っていた。また、城下に構築された上水道の水源でもあった。城下の北東部には吉津橋が架けられ北部対岸との交通はこの橋によって行われていた。なお、築城当初の吉津橋は現在より西寄りにあったが、寛永18年(1641年)に現在の位置に架け替えられている。この他、下流の三吉村(現在の三吉町)にある城下東側に通じる笠岡街道(鴨方往来)にも橋が架けられていた。なお、この付近の吉津川は近隣に薬師寺と呼ばれる寺があったことから薬師川とも呼ばれている。 吉津川は水野時代中期までに城北部分が堰き止められ上水道の沈殿地(蓮池)として利用されるようになった(詳しくは福山旧水道を参照)。これにより近代水道が完成する大正時代まで福山の重要なライフラインの機能を持つことになったが、蓮池から下流は流量が減少し総構えの防衛を補完する当初の役割は失われることになった。そのため、幕末に長州軍が福山に侵攻した際には吉津川が攻略地点にされ黒門付近から容易く兵の侵入を許すことになった。明治時代になると城下北部の川岸は埋め立てが進み市街地化していき、現在の川幅は概ね幅4、5m程度となっている。 街道福山城が海路の抑えを重視したこともあり、当時の主要幹線である近世山陽道(西国街道)は城下を通過していない。しかし、城下より下記の街道が通っていた。尚、街道名は福山城下での名称であり、他地域においては呼び名が異なる。
上水道→詳細は「福山旧水道」を参照
脚注
参考文献関連項目外部リンク |