神津猛神津 猛(こうづ たけし、1882年 - 1946年6月21日)は、日本の実業家、考古学研究者。 経歴長野県北佐久郡志賀村(現佐久市)生まれ。生家は信州で指折りの豪農であった神津家の「赤壁家」である。明治32年(1899年)慶應義塾幼稚舎を卒業して帰郷。祖父の包重が始めた報徳会(のち農業会)を中興して、農村指導や地方自治にあたる。明治40年(1907年)から村政に関与し、大正6年(1917年)志賀村長に就任、その他、北佐久郡会議員、上田の中信銀行頭取、佐久鉄道の重役を務めた。昭和5年(1930年)信濃銀行破綻に際しては私財を投じて支払いに当たった。 島崎藤村、田山花袋、高浜虚子らと交流があり、藤村の『破戒』の自費出版費用を提供し、その後も支援を続けた[1]。また考古学にも興味を持ち、明治37年(1904年)東京人類学会に入会し[2]、同学会誌への報告や、長野県内の考古遺跡の調査を開始し、また昭和4年(1929年)には信濃考古学会を設立、自費で「信濃考古学会雑誌」を発刊した[3]。同7年(1932年)廃刊[4]。長野県立歴史館に「神津コレクション」が収蔵されている。 係累
脚注参考文献外部リンク
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