磯矢伍郎
磯矢 伍郎(いそや ごろう、1896年(明治29年)1月2日[1][2] - 1993年(平成5年)8月22日[1])は、日本の陸軍軍人。最終階級は中将。 経歴三重県出身[1][2][3]。売薬業・磯矢馬佐右衛門の五男として生まれる[1]。三重第三中学校(現三重県立上野高等学校)、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を卒業[1][2][4]。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第55連隊附となる[1][4]。1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を卒業した[1][2][3]。 1926年(大正15年)8月、歩兵大尉に進み歩兵第48連隊中隊長に就任[1]。参謀本部付勤務、参謀本部員、陸大教官兼参謀本部員、関東軍参謀、参謀本部員を務め、1938年(昭和13年)7月、歩兵大佐に昇進し第2軍参謀に発令され日中戦争に出征[1][2][3]。参謀本部員、関東軍参謀、陸軍兵器学校幹事、朝鮮軍参謀、第2軍参謀長を務め、 1942年(昭和17年)8月、陸軍少将に昇進[1][2][3]。 1943年(昭和18年)4月、マライ軍政監に発令され日本軍占領地の軍政を担った[1][2][3]。同年8月、船舶参謀長に転じ、1945年(昭和20年)2月、参謀本部第3部長・運輸通信長官兼大本営陸軍参謀・航空通信保安長官に異動し[5]、同年4月、陸軍中将に進んだ[1][2][3]。同年5月、海運総監部参謀長を兼務し終戦を迎えた[1][2][3]。同年12月、予備役に編入[1]。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[6]。1948年(昭和23年)7月、南方から捕虜を輸送した際の虐待(いわゆる地獄船)に関与した容疑で逮捕、B級戦犯として裁判にかけられた[7]。裁判では懲役刑の判決を受け、1949年(昭和24年)10月まで巣鴨プリズンに拘留された[1]。出所後間もない11月15日の消し印で、磯矢からまだ拘留中の同期生である額田坦、稲田正純あてに、ほかの同期生(清水盛明、柴野為亥知、丸山房安、有末精三)が商売をはじめた近況や有末機関(「例の処」と表現)などを伝える珍しい葉書が残っている。 脚注
参考文献 |