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石黒岩太
石黒 岩太
生誕
1892年
3月30日
日本
山形県
西田川郡
鶴岡町
死没
(
1951-10-15
)
1951年
10月15日
(59歳没)
日本
兵庫県
明石市
所属組織
大日本帝国陸軍
軍歴
1913 - 1945
最終階級
陸軍少将
指揮
独立歩兵第13連隊長
奈良連隊区司令官
独立混成第95旅団長
戦闘
ノモンハン事件
五原作戦
浙カン作戦
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石黒 岩太
(いしぐろ いわた、
1892年
(明治25年)
3月30日
-
1951年
(昭和26年)
10月15日
)は、
日本
の
陸軍
軍人
。最終階級は陸軍
少将
。
略歴
1892年
(明治25年)
3月30日
-
山形県
西田川郡
鶴岡(現・
鶴岡市
)に石黒慶助の長男として生れる。
1910年
(明治43年) - 荘内中学校(現・
山形県立鶴岡南高等学校
)
卒業
(
同窓生
に
齋藤悠輔
がいる。)
1913年
(大正2年)
5月26日
-
陸軍士官学校
卒業(
25期・卒業生一覧
)
12月25日
-
歩兵
少尉
任官
札幌
歩兵第25連隊
入隊
1938年
(昭和13年)
1月
- 旭川
歩兵第28連隊
入隊
1939年
(昭和14年)
8月
-
陸軍大佐
任官、
留守第7師団
司令部
付
ノモンハン事件
出征
10月
-
独立歩兵第13連隊
長 就任
1943年
(昭和18年)1月 -
奈良連隊区
司令官 就任
1945年
(昭和20年)
2月
-
独立混成第95旅団
長 就任
3月
- 陸軍少将 任官
8月 -
青森県
で連合軍との
本土決戦
に備え陣地構築中に終戦を迎える。
1947年
(昭和22年)
11月28日
-
公職追放
の仮指定を受ける
[
1
]
。
1951年
(昭和26年)
10月15日
-
死去
。59歳
親族
父:石黒慶助 - 『石黒工場』(
羽二重
織物
工場
)
経営者
従兄弟:
斎藤外市
-
発明家
兄:
石黒慶蔵
-
歯科医師
、歯科
医療器具
発明家
甥:
石黒慶之助
- 歯科医師、歯学博士
甥:
石黒進之助
- 歯科医師
姪孫:
石黒慶一
- 歯科医師、歯学博士
脚注
^
総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、
37
頁。
NDLJP
:
1276156
。
出典・参考文献
総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年。
『庄内人名辞典』
大瀬欽哉
(代表編者)
致道博物館
内「庄内人名辞典刊行会」(発行)
福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。