石河光晃
石河 光晃(いしこ みつあき)は、尾張藩家臣、美濃駒塚領主、石河家第10代当主。 略歴嘉永6年(1853年)、父光美の隠居により家督を相続。家老職を仰せつかる。安政4年(1857年)、従五位下佐渡守に叙任されていたが、明治元年に位記・口宣案を返上し[1]、以降、佐渡・大八郎を称した[1]。 維新後は士族だったが、明治3年(1870年)から華族編入請願運動を熱心に行うようになり、石河家が1万石以上を有していたことを理由に7回に及んで請願を行ったが、彼の存命中には万石以上陪臣の叙爵は行われておらず、請願は全て不許可に終わっている[1]。 明治14年(1881年)1月4日死去[1]。 参考文献
|