石川 (練習艦)
石川(いしかわ)は日本海軍の航海練習艦[2]。艦名は建造所である石川島造船所がある地名より採られる[9]。造船所のあった場所が石川島(元々は島)と呼ばれていた[6]。 概要石川島造船所建造の日本海軍軍艦としては「千代田形」、「沖鷹丸」に次いで3番目になる[6]。 艦型は木造の2檣ブリッグ型の帆船で機関は無い[6]。 砲は装備しなかったと言われる[6]。 1876年(明治9年)7月22日(または9月[7])に運送船として竣工、同年9月25日に練習船に定められた[5]。 1893年(明治26年)3月9日除籍[6]、 1896年(明治29年)3月6日に農商務省へ移管し、北海道庁水産物調査船になった[5]。 艦歴建造1874年(明治7年)8月1日石川島造船所で起工[5]。 1875年(明治8年)1月19日運送船(230トン帆船)を「石川丸」と命名[8][18]。 1876年(明治9年)3月11日進水、7月22日(または9月[7])竣工[5]。 同日、石川丸は東部指揮官所轄と定められた[19]。 1876年1876年9月25日(または26日[20])東海鎮守府所轄の石川丸は練習船に指定された[5][10]。 10月9日、石川丸の番号は第7号(元第一丁卯の番号)に指定された[12]。 1877年石川丸は1877年(明治10年)から浦賀に碇泊していた[21]。 1878年
1878年(明治11年) 1月26日横須賀に回航、横須賀造船所で約3カ月修理を行った[21]。 5月3日浦賀に帰港した[21]。 5月4日、7等船に定められた[3][5][22][23]。
実地演習のために5月17日浦賀を出港、兵庫港から佐賀関に向かった[21]。 途中は天候不良、逆風のために網代、三木、大島に寄港、6月6日兵庫着[21]。 6月9日兵庫発、逆潮や無風のために糸崎、御手洗に寄港、6月18日佐賀関に到着した[21]。 同地で大砲を積み入れ、翌6月19日に出港した[21]。 三原沖、多度津で碇泊し、7月9日兵庫に入港した[21]。 7月15日兵庫発、天候や強風、微風などで度々碇泊し、7月31日横須賀に入港した[21]。 8月4日浦賀に帰港した[21]。 11月16日浦賀発、翌17日に品川に到着した[21]。 以後東京湾で訓練のため11月20日出港、風が弱く金田湾で碇泊[21]。 21日館山湾に向かったが、強風のために浦賀港口に碇泊[21]。 25日本牧沖に回航、26日館山港に入港、28日浦賀に帰港した[21]。 1879年
1879年(明治12年)
2月17日浦賀を出港し館山湾に回航、20日館山湾発、21日品海に到着した[24]。 1880年-1881年1880年(明治13年) 1月10日浦賀発、同日夏島沖に碇泊、11日鶴見崎沖に碇泊、12日品川に到着、17日品川発、同日浦賀港に帰港した[24]。
1月20日東海鎮守府所轄の石川丸は繋泊練習船に指定された[5][25]。
3月5日浦賀発、同日館山湾に到着、7日同地発、8日浦賀港に帰港した[24]。
10月5日浦賀を出港、東京湾内で訓練を行い、本牧、品川に碇泊し10月11日浦賀に帰港した[26]。 石川丸は11月4日から11月16日まで横須賀造船所で修理を行った[27]。 11月12日浦賀を出港、東京湾内で訓練を行い、夏島、品川に碇泊し11月18日浦賀に帰港した[26]。 12月14日品川に回航、20日浦賀に戻った。 1881年(明治14年) 3月16日浦賀を出港、東京湾内で訓練を行い、富岡、品川に碇泊し3月22日浦賀に帰港した[26]。 1886年1886年(明治19年)1月15日航海練習艦に指定され、7等艦に準じる扱いとなった[2][5]。 1888年1888年(明治21年)9月14日、浦賀屯営附属艦になった[28]。 9月21日「石川」に改名[5]、 9月28日船長は艦長に改められた[29] 1889年1889年(明治22年)4月18日、呉鎮守府の航海練習艦になった[4]。 1890年1890年(明治23年)8月13日に日本海軍の新たな類別が制定され[30]、 8月23日「石川」は第3種(戦闘航海の役務に堪えざる軍艦[30])に定められた[31]。 除籍1893年(明治26年)3月9日、第5種(倉庫船荷船雑船[30])となった[32](除籍[9][6])、呉海兵団附属に指定された[5]。 艦長※『官報』に基づく。
脚注出典
参考文献
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