石井忠信
石井 忠信/石井 一幽軒(いしい ただのぶ/いしい いちゆうけん)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。肥前国の戦国大名龍造寺氏の重臣。肥前国佐嘉郡飯盛城主石井和泉守忠清の三男。 佐賀藩祖鍋島直茂の正室で、初代藩主勝茂の生母になった陽泰院の叔父にあたる。 佐賀藩独礼石井伊予守家(家禄375石)の初代である。 来歴肥前国小城郡主千葉氏および佐賀城主龍造寺氏の重臣で、佐嘉郡飯盛城主石井和泉守忠清の三男として生まれる。 父忠清や兄兵部少輔常延・長門守忠家とともに、龍造寺家兼・隆信二代に仕えた。 元亀元年(1570年)、鍋島直茂に従い、佐賀城に侵攻した大友親貞の本陣を急襲し、龍造寺氏の戦勝に貢献した(今山の戦い)。 天正12年(1584年)3月、沖田畷の戦いで、龍造寺隆信が討たれ、石井氏からも多くの戦死者を出した。忠信は、石井氏の長老として、一族の団結を促した。 天正8年(1580年)の段階で、龍造寺氏の分限帳には、嫡男の肥後守忠時が掲載されており、忠時に家督を譲って隠居していたものと考えられる。忠時は、本家刑部少輔常忠の跡を受けて、飯盛城主になった。 子孫は、後に佐賀藩独礼の家格で遇せられ、家禄375石をもって、明治維新の廃藩まで続いた。 天正15年(1587年)死去。 |