県犬養八重県犬養八重(あがたのいぬかい の やえ、生年不明 - 天平宝字4年5月7日(760年6月24日))は、奈良時代中期の女官。遣新羅使を務めた葛井広成の室。県犬甘命婦・犬甘命婦・犬甘八重とも記される。官位は命婦・従四位下。 生涯聖武朝の天平14年(742年)2月、天皇は皇后宮に行幸し、群臣と宴をした際に巨勢奈弖麻呂・坂上犬養とともに、県犬養八重を正八位上から外従五位下に昇叙したとある[1]。天平17年(745年)正月、内位の従五位下に進んだ[2]。 この間に、当時、光明皇后の下で盛んに行われた写経事業に専心したことが、『正倉院文書』によって知られており、天平15年(743年)10月の経師等充紙帳に、天平14年4月に「犬甘少命婦」が写経を命じる宣者として登場している[3]。同様の記述が同15年10月[4]、同18年(746年)2月[5]、同年4月[6]のこととして現れている。 同19年(747年)12月の東大寺写経所解には「千手千眼経廿一巻、依犬甘命婦八重今年七月廿六日宣所奉写」とあり[7]、これは、同年7月、「県犬甘命婦宣」による千手経21巻の書写のこと[8]を指し示しているものと思われる。同年同月、多くの写経を宣している[9][10][11]。 天平20年(748年)8月、聖武天皇は既に散位であった従五位上の葛井広成の宅に行幸し、群臣を招いて宴飲し、日が暮れてそのまま宿泊した。翌日、その功により、広成とその室であった八重は、ともに正五位上を授けられている[12]。同年、その宣により、薬師経を写している[13]。 天平勝宝3年(751年)の端裏書を持つ「東大寺開田地図」には、近江国犬上郡・愛知郡霸流(へる)村(現在の滋賀県彦根市曽根沼付近)に、東大寺領墾田と接して八重の墾田があったことが記されている[14]。淳仁朝の天平宝字4年(760年)5月、御使王と同日に、命婦・従四位下として卒去[15]。 官歴注記のないものは『続日本紀』による
脚注
参考文献 |