目加田 誠(めかだ まこと、1904年〈明治37年〉2月3日 - 1994年〈平成6年〉4月30日)は、古典中国文学者、九州大学名誉教授、日本学士院会員。
経歴
出生から終戦まで
1904年、山口県岩国市生まれ[1]。[2]。父母が相次いで早世し、中学生にして一家の長としての責任を負うことになった[3]。水戸高等学校を経て、東京帝国大学支那文学科に入学[4]。1929年に東京帝国大学を卒業[1]。
卒業後は、1930年に第三高等学校教授となった。1931年に結婚。1933年、九州帝国大学助教授に任じられ、そのまま文部省在外研究員として北平に研究留学(1933年10月から1935年10月まで)。この留学期間中の記録として『北平日記』8冊を記していた。1935年に日本に帰国するが、一子を残して妻は病没[5]。
戦後
1948年、瀬利さくをと結婚。九州大学教授に昇進[1]。1950年、学位論文『詩経研究』を九州大学に提出して文学博士号を取得。1964年に九州大学を退官し、名誉教授となった。その後は1964年より早稲田大学教授として教鞭をとり、「中国古典文学」などを受け持った[6]。1974年、早稲田大学を定年退職。
学界では、1985年に日本学士院会員に選出された。また、1971年から1973年まで第7代目日本中国学会理事を務めた[7]。1994年、自宅があった福岡県大野城市にて没した。
研究内容・業績
- 専門は中国文学。詩経、唐詩などの著書が多数ある。一般には、詩経を日本で初めて現代口語訳したことで知られている。
平成改元
- 1989年1月7日に行われた平成改元の際に、最終3案に残った「修文」を提案している。
目加田文庫
- 目加田誠・さくを夫妻の蔵書は「大野城心のふるさと館」に寄贈され、収蔵されている[8][9]。
- 北京留学中に記していた『北平日記』は、1930年代の北京の様子を知ることのできる資料である。加えて、同時期には日本から倉石武四郎、吉川幸次郎などの研究者も北京を訪れており、日中研究者の交流や書肆の状況を伝える資料となっている[10]。
家族・親族
著作
著書
- 『詩經 東洋思想叢書』 日本評論社 1943年
- 『風雅集-中國古典文學の研究』 惇信堂 1947年
- 改訂版『中国の文芸思想』 講談社学術文庫、1991年
- 『新釈 詩経』 岩波新書 1954年。度々復刊
- 『洛神の賦-中国文学論文と随筆』 武蔵野書院 1966年
- 『屈原』 岩波新書 1967年
- 『杜甫物語-詩と生涯』 社会思想社<現代教養文庫> 1969年
- 『中国詩選1 周詩~漢詩』 社会思想社<現代教養文庫> 1971年。文元社 2004年 - オンデマンド版
- 『唐詩散策』 時事通信社、1979年
- 『随想 秋から冬へ』 龍渓書舎、1979年
- 『夕陽 限りなく好し』 時事通信社、1986年。自伝・随想
- 『春花秋月』 時事通信社、1992年
- 『残燈 歌集』 石風社、1993年
- 『目加田誠「北平日記」 一九三〇年代北京の学術交流』[11] 中国書店、2019年
訳・註解
- 『詩經 訳註篇 第一』 丁子屋書店 1949年。本巻のみ
- 『詩経・楚辞』〈中国古典文学全集 第1巻〉平凡社 1960年
- 改訂版「詩経・楚辞」〈中国古典文学大系15〉平凡社 1969年。復刊1975年・1994年ほか
- 『唐詩選』〈新釈漢文大系19〉明治書院 1964年
- 『杜甫』〈漢詩大系9〉集英社 1965年。新装版〈漢詩選9〉集英社 1996年
- 『杜甫詩集』〈中国詩人選3〉集英社 1966年、改装版1972年。新装版「中国名詩鑑賞4」小沢書店、1996年
- 『文心雕龍』〈中国古典文学大系54「文学芸術論集」〉平凡社 1975年。復刊1994年ほか
- 『唐詩三百首』 蘅塘退士編、平凡社東洋文庫(全3巻) 1973-75年。ワイド版2004年
- 『世説新語』〈新釈漢文大系76・77・78〉明治書院 1975-78年
- 抜粋版「世説新語」〈新書漢文大系21〉明治書院、長尾直茂編、2003年
- 『うたの始め 詩経』〈中国の名詩1〉平凡社 1982年
- 『滄浪のうた 屈原』〈中国の名詩2〉平凡社 1983年
- 『漢詩日暦』 時事通信社 1988年。古代から清朝までの名詩365首を編著
著作集
- 「詩経研究」
- 「定本 詩経訳注 上」
- 「定本 詩経訳注 下」
- 「中国文学論考」
- 「文心雕龍」
- 「唐代詩史」
- 「杜甫の詩と生涯」
- 「中国文学随想集」
記念論集
- 『中国学論集』 目加田誠博士還暦記念論文集 大安、1964年
- 『中国文学論集』 目加田誠博士古稀記念論集 龍渓書舎、1974年
目加田誠に関する資料
脚注