益田精祥益田 精祥(ますだ あきよし、1862年2月7日(文久2年1月9日[1]) - 1917年(大正6年)8月25日[1])は、益田家第35代当主。長州藩永代家老・須佐領主益田家16代。男爵。通称精次郎。 生涯文久2年(1862年)、長州藩家老益田親施の子として生まれる。元治元年(1864年)11月、父親施が禁門の変の責任を取り切腹する。精祥はまだ3歳の幼児であったため、藩主一門吉敷毛利房謙の九男で桂家を相続していた親澄(益田親祥)が、叔母房子の婿養子として益田家に入り、当主代理を務めることとなった。 慶応元年(1865年)3月に家督を相続する。同年、父が咎めを受けたため幕府を憚って、先祖が称していた御神本に名字を改めた。明治元年(1868年)、名字を益田に復す。明治6年(1873年)、親祥に家督を譲り、その養子となる。 明治12年(1879年)3月、親祥が隠居し、同月28日に家督を相続する[1]。明治22年(1889年)、毛利敬親を祀る山口県県社野田神社祠官となり、同年豊栄神社の御用係となる。 明治33年(1900年)、父・親施の明治維新への功績により従五位・男爵に叙され、華族となる。 1917年8月25日卒。享年56。 栄典親族脚注参考文献
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