白山松哉白山 松哉(しらやま しょうさい、1853年10月24日(嘉永6年9月22日)- 1923年(大正12年)8月7日)は、明治時代から大正時代に活躍した日本の漆芸家である。本姓は細野、本名は福松。 経歴・人物江戸の生まれ。若くして小林好山及び蒲生盛和の門人となり、蒔絵や螺鈿、堆朱等を学ぶ。後に起立工商会社に勤務し、漆芸の制作に携わった。これによって、転職し1905年[1](明治38年)に東京美術大学(現在の東京芸術大学)にて教鞭を執り、翌1906年(明治39年)には帝室技芸員や農展の審査員(第5回と第6回)に採用された。 松哉の作風は「研ぎ出し蒔絵」と呼ばれ、極めて類もない緻密なものであった。この業績により、1890年(明治23年)に開催された第3回内国勧業博覧会では3等賞受賞[2]。1900年(明治33年)に開催されたパリ万博と1904年(明治37年)に開催された米国セントルイス万国博覧会では名誉大賞を受賞し[2]、海外でも有名な漆芸家となった。 主な作品代表的な作品その他の作品
脚注出典外部リンク
|