田川賢吾
田川 賢吾(たがわ けんご、1994年5月22日 - )は、京都府舞鶴市出身の元プロ野球選手(投手)。右投左打。 経歴プロ入り前小学3年生の時から野球を始めると、中学生時代には赤星憲広が設立したレッドスターベースボールクラブに所属していた[1]。 高知中央高等学校への入学当初は、外野手としてプレー。2年時の春から投手としての練習を始めると、秋から本格的に転向した[2][3]。3年春の高知県総体では、高知商業高校との試合で本塁から中堅までの距離が121mである高知市野球場のバックスクリーンにソロ本塁打を放った。3年夏の選手権高知大会では、岡豊高校との3回戦で自己最速の148km/hを記録。無四球1失点という内容で完投勝利を収めた[2]。しかし、続く高知高校との準々決勝では、延長10回まで戦った末に1-2で敗退し、在学中には春夏とも、甲子園球場での全国大会への出場はなかった。 2012年度プロ野球ドラフト会議で、東京ヤクルトスワローズから3巡目指名を受け[4]、契約金5000万円、年俸600万円(金額は推定)という条件で入団。入団当初の背番号は35。 ヤクルト時代2013年には、イースタン・リーグ公式戦3試合に登板。0勝1敗、防御率9.00を記録した。 2014年には、4月10日に腰椎椎間板ヘルニアの摘出手術を受けたため、一・二軍とも公式戦への登板機会がなかった。 2015年には、イースタン・リーグ公式戦3試合に登板。0勝1敗、防御率8.44を記録した。 2016年には、イースタン・リーグ公式戦19試合に登板。2勝3敗、防御率7.28という成績を残した。入団以来一軍公式戦での登板機会がないまま10月1日に球団から支配下選手契約の解除を通告[5]されたが、通告後も球団に籍を置いたままフェニックスリーグへ参加。11月22日には育成選手として契約を結ぶとともに、背番号を117へ変更することが球団から発表された[6]。 2017年には、イースタン・リーグ公式戦で過去最多の28試合に登板。5勝6敗、防御率4.43という成績を残したが、支配下登録選手への復帰や一軍公式戦へのデビューには至らなかった。育成選手に関するNPBの規定で、10月31日にいったん自由契約選手として公示[7]。公示後に、育成選手として再び契約を結んだ。 2018年には、オープン戦の途中から一軍へ昇格すると、救援投手として登板を重ねた。3月20日には、支配下登録選手へ復帰するとともに、背番号を62へ変更[8]。さらに、プロ入り後初めての一軍公式戦出場選手登録を、開幕一軍入りで果たした[9]。4月3日の対広島東洋カープ戦でプロ初登板も果たしたが、結果としてこの年は1試合の出場に留まった。 2019年は、イースタン・リーグ公式戦16試合に登板。4勝5敗、防御率3.70という成績を残した。2試合連続完投勝利(内1試合は完封)を挙げるなど成長を見せた。9月15日にマツダスタジアムでの広島戦で先発登板し、5回と2/3を1失点に抑えプロ入り初勝利を挙げた[10]。 2020年は、イースタン・リーグ20試合に登板し、防御率1.95の好成績を残したが、一軍での登板はなく、11月2日に戦力外通告が公示された[11][12]。 ヤクルト退団後2021年からは、社会人野球の日立製作所でプレーを続ける[13]。 選手としての特徴・人物長身から投げ下ろす最速148km/hのストレートが武器。キレの良いスライダーを中心に、カーブ・フォークと多彩な変化球を投げられる[2]。 ヤクルト入団後の2016年春季キャンプ前には、小川泰弘と共に上原浩治の自主トレーニングに参加し、上原から「素材は素晴らしい」との賛辞を受けた[14]。 また、プロ入り初勝利を挙げた際は、上原から祝福を受けている[15]。 詳細情報年度別投手成績
年度別守備成績
記録
背番号
登場曲
脚注
関連項目外部リンク
|