生田朗

生田 朗
生誕 (1954-11-24) 1954年11月24日
出身地 日本の旗 日本神奈川県横浜市[1]
死没 (1988-08-20) 1988年8月20日(33歳没)
学歴 慶應義塾大学卒業
ジャンル J-POPニューミュージック
職業 音楽プロデューサー
活動期間 1975年 - 1988年

生田 朗(いくた あきら・Aki Ikuta、1954年11月24日[2] - 1988年8月20日)は、日本音楽プロデューサーコーディネーター。妻は、音楽家吉田美奈子

来歴

神奈川県横浜市出身[2]慶應義塾大学[2]

1975年から、山下洋輔坂本龍一大貫妙子マネージャーとなり[3]1981年からフリーの音楽プロデューサー&コーディネーターとして独立。高橋幸宏清水靖晃渡辺香津美らの作品を手がける[3]

YMO作品のマネジメントやコーディネートを手がけ[3]、アルバム『イエロー・マジック・オーケストラ』のマネージメント、アルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』でのコーディネーターなどを行い、1979年の「トランス・アトランティック・ツアー」ではツアーマネージャーを務めた。同年の中野サンプラザでの凱旋公演のメンバー紹介(アルバム『パブリック・プレッシャー』に収録『バック・イン・トキオ』)も、生田によるものである。散開後は坂本龍一のスタッフとなり、坂本の個人事務所を取り仕切っていた[4]。坂本が出演および音楽を担当した『ラストエンペラー』に日本人医師として出演している[3]

1988年8月18日メキシコプエルト・バヤルタで休暇中に運転していた車ごと崖に転落し、2日後の8月20日に死去[4]

高橋幸宏の1988年発表楽曲「sea-change」(アルバム『EGO』収録)は生田に捧げられたもの。

出演番組

  • ミュージック・ワークショップ(広島FM)[2]

脚注

出典

  1. ^ 「世界的ミュージシャン・ネットを考える生田朗は音楽界のコーディネーター」『テッチー』、音楽之友社、1987年3月、2015年12月15日閲覧 
  2. ^ a b c d DJ名鑑 1987三才ブックス、1987年2月15日、22頁。
  3. ^ a b c d 【BETTER DAYS】若き天才たちの実験場 “ベターデイズ・レーベル” が起こした奇跡”. ARBAN (2019年10月11日). 2022年11月8日閲覧。
  4. ^ a b 見城徹 (2002年6月15日). “第6回「ラスト・エンペラー」坂本龍一”. オンリー・イエスタデイ. 幻冬舎. 2015年12月15日閲覧。