王印川
王 印川(おう いんせん)は清末民初の政治家。北京政府では安徽派などに属し、国民政府成立後も中ソ交渉などに携わった人物である。字は月波。号は空海。 事績清末民初の活動1903年(光緒29年)、癸卯科挙人となる。後に日本に留学し、1910年(宣統2年・明治43年)に早稲田大学専門部政治経済科を卒業している[1]。また中央大学でも学び、法学士の称号を得たとされる[2]。1911年(宣統3年)に帰国すると河南高等学堂教務長に任ぜられたが、まもなく河南独立を謀り、事が漏れて上海に逃れた。上海では『民立報』の編輯となっている。[3][4] 中華民国成立後の1912年(民国元年)初めに、統一党の幹事に選ばれ、まもなく副総理とされた。同年5月、統一党が民社などと合併して共和党が結成されると、王印川はここでも幹事となる。翌1913年(民国2年)、衆議院議員に当選する。同年5月、進歩党が結成されると、王は同党理事に選出された。[5]その後、憲法起草委員、政治会議議員、約法会議議員を歴任する。1914年(民国3年)5月、参政院参政に任ぜられ、北京『黄鐘日報』を主宰した。[3][4] 安徽派、奉天派での活動1916年(民国5年)、袁世凱死後に復活した国会で衆議院秘書長を務めた。1918年(民国7年)、安徽派を支持する安福倶楽部に加入し、同党評議会副会長となっている。同年9月、安福国会で衆議院議員に選出され、同院秘書長に再任された。1920年(民国9年)2月、署理河南省省長に任ぜられる。7月、安徽派が安直戦争で敗北すると、安徽派に与していた王印川も下野した。[3][4] 1924年(民国13年)、王印川は奉天派指導者・張作霖の顧問となる。翌年7月、段祺瑞の執政政府で臨時参政院参政に任ぜられた。1927年(民国15年)、張作霖が大元帥になると、王は河南招撫使に任ぜられる。北京政府が崩壊すると、王は下野、大連に閑居した。[3][4] 国民政府での活動国民政府成立後の1929年(民国18年)、王印川は中ソ会議代表団秘書に任ぜられ、以後数年間、ソビエト連邦との交渉に関与した。1934年(民国23年)7月、安徽省政府主席劉鎮華の下で、同省政府委員兼秘書長に任ぜられた。1937年(民国26年)4月、王は劉とともに辞任し、以後故郷に引退した。1939年(民国28年)、天津にて病没。[3]日本側からの傀儡政権参加要請をあくまで拒絶し、抗議の断食をして死に至ったとされる。[4]享年62。 著作
注参考文献
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