王允卿
王 允卿(おう いんきょう、中国語: 王允卿; 拼音: Wáng Yŭnqīng; ウェード式: Wang Yün-ch'ing)は、中華民国・満州国の政治家・外交官。字は庚陽。 事績官費で日本へ留学し、明治大学法学部本科を卒業した[1]。帰国後は奉天交渉署練習員、安東県甲種商業学校教務長、国立山西大学教授、山西軍官法政講習所教官、天津地方検察庁検察官、黒竜江省鶴崗煤鉱公司科長兼董事を歴任している[2]。 満州事変(九・一八事件)勃発後、王允卿は鶴崗煤鉱を関東軍に引き渡し、その際に土肥原賢二から事務能力を認められたという[3]。1932年(大同元年)3月に満州国が建国されると、吉林省高等検察庁庁長に起用され[4]、1934年(康徳元年)3月には司法部行刑司司長に抜擢された[5]。1937年(康徳4年)7月、奉天省民政庁長に移り(翌年1月、民生庁長に改組)、翌1938年(康徳5年)5月には総務庁官房首席検察官となっている[3]。 1940年(康徳7年)5月、王允卿は熱河省省長に転じ[6]、翌1941年(康徳8年)1月には総務庁次長に起用された[7]。同年9月には、満州国協和会連合協議会副議長に選出されている[3]。1942年(康徳9年)、満州国建国10周年祝典事務局局長を務めた。同年9月29日、駐日大使を命ぜられ、日本に駐在している[8][3]。なお、王允卿は満州国最後の駐日大使である。 正確な時期は不明だが、王允卿は満州国滅亡前後に帰国している。その後、国民政府により王は逮捕され、南京老虎橋監獄に収監された。1949年(民国38年)に釈放され、長春市に移り住んでいる。しかし中華人民共和国建国後の1951年4月26日、長春市公安局により反革命罪を問われて逮捕された。1954年、長春市の監獄内で病没。享年65。 脚注参考文献
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