犬上御田鍬
犬上 御田鍬(いぬかみ の みたすき、生没年不詳)は、飛鳥時代の人物。名は三田耜とも記される。姓は君。冠位は大仁。 最後の遣隋使および最初の遣唐使を務めた、大和朝廷の中級官吏・外交官の一人。 出自犬上氏(犬上君)は日本武尊の子・稲依別王の後裔とされる皇別氏族[1]。氏の呼称は近江国犬上郡(現在の滋賀県犬上郡および彦根市とその周辺地域)に由来する[2]。 経歴推古天皇22年(614年)6月に矢田部造(名不明)とともに最後の遣隋使として隋に渡る[3]。翌推古天皇23年(615年)9月に百済使を伴って帰国した[4]。 舒明天皇2年(630年)8月に第1次遣唐使の大使として、薬師恵日と共に唐に遣わされる(このとき二人の冠位は大仁)[5]。舒明天皇3年(631年)[6]使節一行は皇帝・太宗と謁見した。この際、太宗はその道の遠いことを矜(あわ)れみ、担当の役人に勅して毎年の入貢をやめさせたという[7]。舒明天皇4年(632年)8月に使節一行は唐使・高表仁を伴って対馬国に着いた。この際、霊雲・旻・勝鳥養や新羅の送使も行をともにしている[8]。なお、高表仁は10月に難波津に到着し[9]、翌舒明天皇5年(633年)1月に唐へ帰国したが[10]、この間の御田鍬らの動向は明らかではない。 脚注参考文献
|