片野温
片野 温(かたの あつし、1896年〈明治29年〉2月16日 - 1962年〈昭和37年〉10月3日[1])は、日本の郷土史家。 人物岐阜県の治水事業で活躍した片野萬右衛門の外孫として、父・省吾、母・きくえ(萬右衛門の娘)の子として生まれた。 岐阜師範学校に学んで25年間教職に就いた。その後岐阜市役所に転職し、松尾国松岐阜市長の秘書を務めたが、第二次世界大戦後職を辞し、郷里に帰省し、小中学校のPTA会長、輪之内町文化財審議委員、岐阜県文化財審議会委員を歴任した。恩師阿部栄之助に「郷土史研究は根本史料の探訪から始めよ」と諭され、慶長期前の古文書の影写、金石文の手拓[注釈 1]に励んだ。1936年(昭和11年)には岐阜市主催躍進日本大博覧会において、宗教館、郷土館の計画、運営を嘱された折、織田信長、斎藤道三などの肖像模本に取り組む特技を発揮するなど史料の影写、手拓、模写にとりついだ生涯を送った。 他にも「美濃国史料郡上編」「長瀧史料」「美濃国史料岐阜・稲葉編」などの郷土史を刊行した。この史料編の刊行によって、温は中世文書研究史家としての地位を固めた。 1941年(昭和16年)、岐阜県の産業である傘、提灯、団扇、美濃焼などの現況調査、資料保存を数藤鉄臣岐阜県知事に進言し、調査機関を設置した。1942年(昭和17年)から翌年にかけて、集荷された350余の梵鐘を手拓し、銘文、計測の記録を残し、「濃飛両国梵鐘年表」を編集した。 1951年(昭和26年)郷土文化の昴揚に努めたとして、岐阜県教育委員会より、また1954年(昭和29年)には、古文書の影写、郷土史研究が認められて岐阜タイムス文化賞を受賞したが、1962年(昭和37年)、67歳で岐阜県立大学医学部付属病院(現在の岐阜大学医学部付属病院)で永眠した。遺体は医学者の育成にと献体するなど、死してもなお医学界に身を捧げた。 家族・親族片野家略系図脚注注釈
出典
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