熊野敏三
熊野 敏三(くまの びんぞう、1855年2月8日(安政元年12月22日) - 1899年(明治32年)10月11日)は、日本の官僚である[2]。 略歴1855年(安政元年)に萩で出生[3]。幼名は猪三郎[1]。松下村塾で漢籍を学んだ後、1871年(明治4年)に上京しフランス語を学んだ[3]。1872年(明治5年)に大学南校に入学したが、司法省明法寮に転学した[3]。 1875年(明治8年)からフランスに留学し[2]、パリ大学に入学した[3]。1883年(明治16年)に日本に帰国した[2]。 帰国後は司法省参事官となり[3]、旧民法や旧商法などの作成に関わった[2]。ボアソナードが作成した旧民法の草案の翻訳や[3]、家族法の草案の作成を行った[4]。1888年(明治21年)6月、法学博士の学位を授与された[1]。 明治法律学校では法律大意、人事法、相続法、万国公法を教え[5]、1897年(明治30年)9月からは教頭を務めた[6]。 1899年(明治32年)5月から肺病に倒れ、10月11日に死亡した[3]。 栄典脚注参考文献
|