熊谷就真
熊谷 就真(くまがい なりざね)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。毛利氏、吉川氏家臣。安芸国の国人・熊谷信直の五男(末子)。 生涯天文19年(1550年)、安芸国の国人・熊谷信直の五男(末子)として生まれる。毛利元就に仕え、永禄10年(1567年)8月2日に「就」の偏諱を与えられて「就真」と名乗った。 永禄12年(1569年)12月18日、就真の愁訴や就真の生母・伴大方の働きかけの結果、元就と輝元から所領を与えることを約束され、元亀元年(1570年)5月に野間隆実の旧領・周防国岩国において90貫の地を与えられた。 天正6年(1578年)1月21日に輝元から「玄蕃允」に任じられ、天正7年(1579年)には備中国の佐井田城の在番を命じられた。 慶長2年(1597年)から始まる慶長の役では、次男の直興と共に朝鮮に渡海し武功を挙げる。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、毛利氏が周防・長門2ヶ国に減封され、吉川広家が岩国領主となると、熊谷氏が吉川氏の姻族であったことから[1]吉川広家の寄騎として付けられる。 寛永元年(1624年)9月16日、周防国熊毛郡小周防[2]で死去。享年75。次男の直興が跡を継いだ。 脚注参考資料
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