熊谷元貞
熊谷 元貞(くまがい もとさだ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。安芸国の国人であった熊谷氏の当主。毛利氏家臣で長州藩士。父は熊谷直貞で、母は穂井田元清の娘。子に熊谷主膳正(実名不詳)。 生涯慶長元年(1596年)1月5日に父・直貞が21歳で病死し、慶長10年(1605年)7月2日には、祖父の元直が萩城築城の遅れの責任を負わされて処刑された上、叔父の次郎兵衛や猪ノ助らも処刑された(五郎太石事件)。この時、元貞は家臣の桐原惣右衛門に連れられ、母方の叔父にあたる長府藩主・毛利秀元の下に身を寄せた。後に元貞は赦され、熊谷氏の家督を継いだ。 慶長20年(1615年)5月の大坂夏の陣で奮戦して勲功を挙げ、その恩賞として寄組の地位と長門国厚狭郡吉田村[1]と長門国豊浦郡殿敷[2]等で3000石を与えられ、吉田村に居を構えた。 元和9年(1623年)1月5日に死去。享年29。嫡男の主膳正が後を継いだ。 脚注参考文献
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