烏田武通
烏田 武通(からすだ たけみち)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。大内氏、毛利氏の家臣。烏田景通の子。 生涯筑前国怡土郡の750町の地を領した烏田城主・烏田景通の子として生まれる。 初めは大内氏に仕え、天文22年(1553年)4月19日、大内義長の吹挙により「右京進」の官を与えられたが、弘治3年(1557年)に大内義長が毛利元就によって滅ぼされると、元就に召し出され毛利氏家臣となった。 武通には嗣子がいなかったことから、国司元相の三男である助九郎(後の元貞)を婿養子としたが、後に実子の通知が生まれ、通知が後継となった。 永禄12年(1569年)8月11日、国司元武の執達により、町野隆風が売却した長門国大津郡日置庄利生山半済分1石4斗足、三隅町清富院半済分3石5斗足の地を買得地として毛利輝元から与えられた。 天正11年(1583年)10月26日には、「肥後守」の受領名を輝元から与えられる。 没年は不明。 参考文献 |