瀧清麻吉瀧清 麻吉(たきすみ あさきち[1] / たきずみ あさよし[2]、1895年(明治28年)12月1日[1][3] - 1950年(昭和25年)2月7日[1][2])は、大正から昭和期の警察官、政治家。衆議院議員、奈良県奈良市長。旧姓・上窪(かみくぼ)。 経歴奈良県[2]山辺郡針ヶ別所村大字馬場[1](都祁村[1]を経て現奈良市)で、上窪甚三郎の三男として生まれ[1]、同郡福住村[1](現天理市福住町)の瀧清こふしの養子となる[4]。1915年(大正4年)小倉農業補修学校を修了した[1]。 1916年(大正5年)奈良県巡査となる[1]。以後、1920年(大正9年)巡査部長・高田警察署勤務、1922年(大正11年)奈良県警部補、1924年(大正13年)奈良県警部、1926年(大正15年)郡山警察署竜田分署長、1927年(昭和2年)御所警察署長、桜井警察署長、1928年(昭和3年)高田警察署長、1929年(昭和4年)郡山警察署長、1932年(昭和7年)奈良県警察部高等警察課長、1936年(昭和11年)地方警視・奈良警察署長などを歴任[1][2][3][4]。1937年(昭和12年)11月に退官し奈良市助役に就任した[1][2][3][4]。1939年(昭和14年)10月に奈良市長に就任し[3][4]、1943年(昭和18年)同市長に再任され[1]、1945年(昭和20年)12月に2期務めて退任した[1][2][5]。この間、戦時下の対応に尽力し、生駒郡都跡村の編入、市立奈良高等女学校(現奈良県立奈良高等学校)の設立などを進め[5]、大政翼賛会奈良県支部常務委員なども務めた[4]。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に奈良県全県区から出馬して当選し[1]、衆議院議員に1期在任した[2]。その後、公職追放となった[6]。 その他、奈良市農業会長、奈良県教育会理事、関西司法保護事業連盟顧問などを務めた[2]。 親族脚注注釈
出典参考文献
|