濱野英次郎

濱野はまの 英次郎えいじろう
生誕 1880年5月24日
死没 (1952-03-02) 1952年3月2日(71歳没)
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1902年 - 1931年
最終階級 海軍中将
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濱野 英次郎(はまの えいじろう、1880年明治13年〉5月24日 - 1952年昭和27年〉3月2日)は、日本海軍軍人美保関事件後に連合艦隊参謀長を務めた海軍中将である。

経歴

岡山県出身。1902年(明治35年)12月海軍兵学校30期)を席次15番で卒業。同期に百武源吾今村信次郎松山茂らがいる。海軍大学校乙種学生及び専修学生を修了し航海科専攻士官となり、「新高」、「利根」、「富士」の航海長を務めた。海軍大学校甲種学生(12期)を修了。

第一艦隊参謀を経て、第二南遣枝隊参謀として第一次世界大戦に出征し、南洋群島の占領作戦に従事した。佐世保鎮守府参謀、軍令部参謀と進み、英国大使館附武官補佐官となる。帰国後「吾妻」副長、軍令部参謀。1922年(大正10年)12月、海軍大佐へ進級。大佐時代は軍令部第二課長、「大井」、「春日」及び「扶桑」艦長を務め、再度の軍令部第二課長、次いで軍令部第二班長に補される。

第二班長在職中の1927年(大正15年)12月1日海軍少将に進級。美保関事件査問委員を務めた[1]。次いで連合艦隊参謀長兼第一艦隊参謀長、馬公要港部司令官となる。1931年(昭和6年)12月1日中将に進み、同月21日予備役編入となった。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[2]

柔道が得意で30期でただ1人の一級であった。またその風貌から"入道"というあだ名があった。

栄典

脚注

  1. ^ この記述は参考文献に挙げたアジア歴史資料センターの資料による。
  2. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」12頁。
  3. ^ 『官報』第6212号「叙任及辞令」1904年3月19日。
  4. ^ 『官報』第6494号「叙任及辞令」1905年2月25日。
  5. ^ 『官報』第3729号「叙任及辞令」1907年12月2日。
  6. ^ 『官報』第159号「叙任及辞令」1913年2月12日。

参考文献

  • アジア歴史資料センター 『神通 蕨及び那珂 葦 衝突事件 査問会の件(1)』(C04015679800)
  • 海軍歴史保存会編『日本海軍史』(第9巻) 第一法規出版
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版
  • 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版
  • 明治百年史叢書第74巻『海軍兵学校沿革』原書房