滋野井季吉
滋野井 季吉(しげのい すえよし)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての日本の公卿。中絶していた滋野井家を再興した。 生涯天正14年9月(1586年)、五辻之仲(当時は元仲)の長男として誕生する。初名は冬隆[1](ふゆたか)。 慶長5年(1600年)正月、15歳で叙爵され、同年4月に元服し昇殿を許される。元和2年4月26日(1616年6月10日)、名を季吉(すえよし)と改める。寛永4年(1627年)、参議となり、公卿に列した。 寛永9年(1632年)には元日節会の外弁を、寛永11年(1634年)は白馬節会の外弁を務める。寛永12年(1635年)には踏歌節会の外弁を務め、同年2月3日の春日祭に上卿として参向する。寛永13年(1636年)は元日節会の外弁、寛永14年(1637年)[2]と寛永16年(1639年)は踏歌節会の外弁を務めた。寛永16年12月29日(1640年2月20日)、寛永12年1月5日に従二位叙位の位記を賜った。寛永17年(1640年)は白馬節会の外弁を務め、11月7日の春日祭に上卿として参向、同18年(1641年)は元日節会の外弁を務めた。 寛永20年(1643年)、紹仁親王が即位する(後光明天皇)と、即位外弁を務めた。寛永21年(1644年)、元日節会の外弁を務める。同年2月16日、除服する[3]。 明暦元年12月5日(1656年1月1日)、70歳で薨去した。法名は智光院徹山大通[4]。 官歴
系譜脚注注釈
参考サイト参考文献 |