坊城俊完
坊城 俊完(ぼうじょう としまた)は、江戸時代の公家(公卿)。 堂上家(家格は、名家、藤原北家高藤流勧修寺庶流)である、坊城家の11代当主。 経歴参議・坊城俊昌の次男。母は豊後守・松倉重政の娘。正室は木工頭・岩倉具尭(岩倉家の祖)の娘。継室は、大和守・織田尚長(柳本藩主)の娘。実子に権大納言・坊城俊広など。 はじめ、権中納言・葉室頼宣の養子となって葉室家を相続し、葉室頼豊と称する。 元和2年(1616年)、坊城家10代当主の坊城俊直(後の権大納言・勧修寺経広)が、右兵衛佐・勧修寺教豊の養子となり勧修寺家を相続したため、頼豊が帰家し、坊城俊完と称した。 寛永9年(1632年)5月2日、参議。極位極官は、正二位・権大納言。 明暦3年(1657年)8月20日、出家し常空と号す。 系譜末子 中将院中将院は、坊城俊完の末子で、修験法を会得していた。 貞享2年(1685年)3月罪科不明のまま八丈島に流罪となった。当時、八丈島の樫立村では毎夜鬼が出没して、通りかかりの女、子供に悪ふざけをしていたが、中将院がこれを退治して諏訪に庁に鎮め祀ってから、その気配がなくなった。樫立村ではそれ以来、彼を神として尊崇してきたという。中将院の石室と呼ばれる墓が残されている。 関連項目 |