源至
源 至(みなもと の いたる)は、平安時代初期から前期にかけての貴族。嵯峨源氏、大納言・源定の子。官位は従四位上・右京大夫。 経歴文徳朝の仁寿元年(851年)无位から従五位下に直叙され、斉衡3年(856年)侍従に任ぜられる。 天安2年(858年)清和天皇の即位後まもなく右兵衛佐に任ぜられると、翌貞観元年(859年)従五位上に叙せられる。清和朝から陽成朝にかけての約20年間に亘って右兵衛佐を務め、この間に相模守を兼ねると共に、陽成朝の元慶3年(879年)従四位下に昇叙されている。その後、中務大輔に遷った。 光孝朝に入り、仁和元年(885年)右京大夫に転じ、仁和2年(886年)に従四位上に至る。 逸話淳和天皇の皇女・崇子内親王の御葬送の夜に、皇女の邸宅の隣に住んでいた男が御葬送を見ようとして、女車(女房の乗る牛車)に女と同乗して来ていた。一方で、天下の色好みである源至も御葬送を拝みに来ていたが、かの車を女車と見て寄って来て色っぽく誘いをかけたりする内に、至は蛍を取って、女車の中に入れた。そこで、女車に同乗していた男は、灯の消えた真っ暗な中で人々の泣き悲しむ声を聴きなさい、との趣旨の和歌を代筆すると、これに対して至は、皇女の魂は消えてはいないし、蛍の灯りを消してもあなたの顔が見えなくなることはない、旨の和歌を返したという(『伊勢物語』39,源の至)。 官歴『六国史』による。
系譜『尊卑分脈』による。
学者・歌人として著名な源順は挙の子であり、至の孫に当たる。 脚注
参考文献 |