清水一行
1931年(昭和6年)1月12日 - 2010年(平成22年)3月15日)は、日本の小説家。本名:清水和幸(しみず・かずゆき)。 (しみず いっこう、実際に起きた経済事件に関わった実在の人物をモデルに、企業の実態や事件の内幕を描く作風を確立した[1]。高杉良、城山三郎らと並ぶ経済小説の第一人者として知られる[1]。息子に自動車評論家の清水草一、孫に元テレビ朝日アナウンサーの竹内由恵、元俳優の竹内太郎がいる。 経歴生い立ち東京府南葛飾郡吾嬬町(現在の東京都墨田区八広)の2階屋が4軒続く長屋で、大工の次男として生まれた[2]。父は忠助、母ははな[2]。清水が生まれた吾嬬町は、『玉の井』と呼ばれる私娼街(娼家が密集している地域)の南側に隣接していた[2]。 母はなは夫の忠助が花札ばくちばかりして稼ぎが悪いので、そばと酒の屋台を出した[3]。 3歳の頃に長野県小県郡滋野村(現東御市)に住む叔母に引き取られる[4]。清水の下に妹ができ、母はなは、妹を背中にくくりつけ、清水と兄を屋台の下の籠の中に入れて、お歯黒どぶのそばで商売を続けていたが、さすがに3人を育てながらでは身体がもたなくなった[4]。そして、清水が間引きされるような形で信州に行くことになった[4]。 1936年8月に母のはなが、4人目の子どもを流産し、自身も命を落とした[5]。清水は「自分はもう東京に帰ることなく、ずっと滋野村の人間として暮らすのだろう」と考えた[5]。しかし父の忠助が茨城県出身の女性と再婚し、1939年に8歳になっていた清水を吾嬬町(1932年に向島区に編入)の長屋に呼び戻した[5]。 学生時代墨田区立更正小学校に入学[6]。当初、滋野村の方言が抜けず学校でいじめられたりして苦労した[6]。更正小学校を卒業すると岩倉鉄道学校(現・岩倉高等学校)に入学[7]。 労働運動敗戦とともに、それまで禁じられていた共産主義が知識人、労働者、学生などの間に広っていった[9]。清水も自然と共産主義に興味を持つようになった[9]。青年共産同盟に入り、マルクス・エンゲルスの『共産党宣言』や『資本論』を勉強したり、赤旗をかついでデモに参加するようになった[9]。 清水は父親の忠助と激しい口論をした[10]。忠助は「うちは赤線商売をやってるが、はばかりながらアカの血統はねえんだ!」「とにかくうちに共産党の人間はおいておけねえ。共産党を辞めねえんなら勘当だ!。とっとと出てけ!」とかんかんになって怒鳴った[11]。 1948年4月全日本産業別労働組合会議本部書記[8]。 1949年1月、清水は18歳の誕生日を迎え、正式な共産党員になった[12]。 労働調査協議会出版部員を経て、週刊誌のフリーライターになる[8]。一方で藤原経済研究所に所属した[8]。 小説家として1966年に『小説 兜町(しま)』発表[8]。 2010年3月15日、千代田区の病院で、老衰により死去[13]。通夜・葬儀は近親者で済ませた[1]。 清水の死は当初世間には発表されなかったが、交流のあった人々の間で少しずつ伝わり、親しかった取材スタッフ、編集者、高杉良、佐高信、佐藤俊恵(元秘書)らが、三々五々、自宅に焼香にやってきた[14]。弔問客があると妻は丁寧に応対した[14]。マスコミが清水の死を知ったのは、亡くなってから1週間後で、NHKニュースや新聞で報じられたが、死後に特集番組やテレビドラマなどもつくられた城山三郎に比べ、扱いは小さかった[14]。清水は79歳と2ヶ月、城山は79歳と7ヶ月だった[14]。生涯の作品数は、清水が214作品、城山は118作品である[14]。 エピソード若い時は熱心な共産主義者だった清水だったが、1952年5月1日の血のメーデー事件をきっかけに、労働運動や共産党と訣別し物書きとして生きていくことを決心した[15]。 1967年春、『アサヒ芸能』連載中だった小説『悪の公式』の中の
といった表現が部落差別とされて屠場労組から糾弾を受け[16]、同年9月15日の『解放新聞』に「私の反省 小説<悪の公式>は差別作品であった」と題する反省文を発表[17]。それによると、1967年7月27日、謝罪のため部落解放同盟大阪府連合会に呼び出された清水は「兵庫の番町へ行ってくれ」と命じられ、神戸市長田区の番町に出向いたところ、いきなり十数名の部落解放同盟員に取り巻かれ、「馬鹿者!」という怒声から始まる面罵の集中攻撃を受けたという。 →「部落問題」も参照
1999年2月、甲山事件に基づく小説『捜査一課長』で殺人罪に問われ、大阪高裁で審理中の元保母山田悦子が「犯人扱いされ、名誉を傷つけられた」として著者の清水と集英社、祥伝社の出版社2社に損害賠償などを求めた訴訟で、最高裁第一小法廷は、計176万円の賠償を命じた大阪高裁判決を支持し、清水と2社の上告を棄却した[18]。これにより、清水と出版社の敗訴が確定した[18]。 家族・親族清水家
主な作品とそのモデル
著書1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
脚註
参考文献
関連項目
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