浜野純
浜野 純(はまの じゅん、1960年 - )は、日本のロックミュージシャン、ギタリスト、ベーシスト。父は児童文学作家の浜野卓也[1]。 1970年代後半から1980年代初頭にかけて前衛的なロックバンド「ガセネタ」「不失者」「連続射殺魔」などで活動した。 略歴・人物世田谷区立松沢中学校卒業[2]。浜野によると「中学の頃に灰野敬二さんと遊びでやっていたセッションは、モロにビーフハート風だった」との事[2]。 和田哲郎(琴桃川凛)の解説によると、浜野は1975年秋頃に「連続射殺魔」に参加したが、阿木譲の誘いで和田が関西に移住することになり、浜野は「大阪へ行くのは嫌だ、俺はいつまでも親のスネをかじって芸術ごっこがしたい」という理由で1976年12月にバンドを脱退したという[3]。 1977年、園田佐登志主宰の明治大学現代の音楽ゼミナール(通称「現音ゼミ」)で山崎春美や大里俊晴と知り合い、伝説のロックバンド「ガセネタ」の初代ギタリストとして破天荒な演奏活動を行う。浜野の性急で凶暴なギター演奏は「クスリ臭いギター」とも評され、同時代のアンダーグラウンドなミュージシャンにも影響を与えた。また浜野はギターの弦では一番太いものを張っており、六弦にはベース用の弦を張っていたという[4]。園田佐登志は「初めて会った76年当時、彼は弱冠16才だった。誰にでも毒付く始末の悪い青年だったが、ギターの腕はピカイチで凄みがあった。マイナー時代の浜野はすでに確かな技術を持ったある意味ではとても計算し尽くされたギターを弾く男だった。モズライトからくり出されるドライヴの効いた飛躍的なギターワークは鋭利な刃物のごとく研ぎ澄まされ、今でも聞く者を震撼させる、狂気を孕んだ早成のギタリストである」と評した[5]。 ガセネタの大里俊晴は、浜野の弾くギターを初めて聴いたときの衝撃について次のように回想している[4]。
なお大里俊晴によるガセネタの回想録『ガセネタの荒野』によれば、浜野は大変早熟な天才美青年だったようで、わずか10代半ばにして「削ぎ落とすんだよ。削ぎ落として、削ぎ落として、残った骨だけがぼおっと光っていればそれでいいんだ」と語ったという[4]。 1979年3月30日、ガセネタは解散。その後は灰野敬二の「不失者」でベーシストとなるが[6][7][8]、ほどなく音楽活動から引退した。 1992年、ガセネタのCD化にあたって園田佐登志が音源化の許諾を浜野に求めたところ、「(ガセネタに)自分が関わっていたとは最早、思えなくなっている」ことを理由に1stアルバム『SOONER OR LATER』の印税受け取りを辞退する旨の手紙を園田に出している[9]。 ガセネタの元ドラマーで吉祥寺マイナー店長の佐藤隆史いわく「(浜野は)生きながら3回輪廻転生して普通人として生活している」との事[10]。ただし2002年以降の消息については不明である。 音楽評論家の中山義雄は日大芸術学部の入学式で目撃した浜野の様子について「シド・バレットの目をしたブースカ」のようだったと語っている[2]。 作曲・編曲
脚注出典
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