浅野正恭
浅野 正恭(あさの まさやす、1868年1月22日(慶応3年12月28日) - 1954年(昭和29年)10月20日)は、明治から昭和初期にかけての海軍軍人。海軍中将正四位勲二等功五級。予備役後、新宗教「大本」に入信。大本脱退後は弟・浅野和三郎の創立した「心霊科学研究会」に参画。和三郎の死後は、その団体の主導的役割を担い、著作も多く残した。軍人時代に、「正恭」を「しょうきょう」と表記していたことがある。 経歴出生茨城県稲敷郡源清田村(現・稲敷郡河内町源清田)に代々医師を生業とする、浅野家の父・元斎(げんさい)(婿入り)と、母・かんの次男[1]として生まれた。 海軍での経歴
心霊研究1916年(大正5年)4月、弟の和三郎が新宗教「大本」(当時の皇道大本)の開祖出口なおと指導者出口王仁三郎に心酔し、大本に入信。同年11月に海軍機関学校の英語教官を辞職すると、12月に大本本部の置かれた京都府綾部に移住した[3]。当初海軍少将であった正恭は、和三郎の大本入りに反対していた[4]。しかし、正恭も大本に魅せられて入信し、和三郎と共に教団内での信望を集めた。ある信者は、後年「和三郎は終始大日本修斎会長として、兄の正恭は顧問として、大本運動の実権は全くこの兄弟の手に掌握され、出口王仁三郎氏はたゞ教主輔として神示を承るだけの御用として表に立つて直接信者をすることなく、大本の奥深く祭り上げられ、大本は殆ど浅野の大本であるかの如くになつて居たのであります」と回顧している[5]。当時、和三郎達は「大正十年立替説(大正維新、二度目の天岩戸開き)」という終末論を全国に展開し、大本の影響力を恐れた日本政府は1921年(大正10年)2月12日、不敬罪と新聞紙法違反を理由に第一次大本事件で大本に弾圧を加えた[6]。 その裁判中から、王仁三郎は発禁となった教典『大本神諭』に替わる新教典『霊界物語』の口述を開始、さらに蒙古電撃渡航など破天荒な行動で独自のカリスマを発揮しはじめる[7]。この頃から、和三郎は王仁三郎を「精神異常者」とみなして愛想を尽かしはじめ、また霊魂の実在を科学的に証明しようとする意気込みを抱き、独自の活動を模索する[8]。1923年(大正12年)3月23日、「心霊科学研究会」の創立大会が開かれる。1924年(大正13年)7月11日、和三郎は大本を脱退して綾部を去り、正恭も和三郎と行動を共にした[9]。正恭の養子・遥は王仁三郎の娘・梅野と結婚していたため大本に残ったが、昭和3年に離婚して大本を離れた[9]。1946年(昭和21年)には、日本心霊科学協会の設立に、顧問として関わっている。 正恭は、1954年(昭和29年)10月20日に数え88歳で亡くなるが、浅野遙の「父を偲ぶ」によれば、「父は自分の死期を、1ヶ月前から的確に10月20日といって皆に話していたのでしたが、全くその通りに10月20日に死亡しました」[10]という。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けている[11]。 栄典
著作
脚注
参考文献
関連項目外部リンク
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